先日、バレーボールの大会がありました。この大会を通して感じたことを振り返ってみたいと思います。
- 新人戦からの成長とチームの強み
- 厳しいリーグ戦の中で
- 「ヘラヘラ大作戦」の効果
- 部活動と家庭環境の関係
- 勝つための合理性と、負けて学ぶこと
- 「負けて泣く」という経験
- 合理性だけで人は生きているわけではない
新人戦からの成長とチームの強み
新人戦から約5か月、まだ勝ったことのない子達ですが、何とか1勝したいという思いで練習を積み重ねてきました。
うちのチームは決して運動能力が高いわけでもなく、バレー経験者もいません。そのため、地道な基礎練習を積み重ね、少しでも勝機を見出そうとしてきました。
しかし、うちのチームの最大の強みは 学力の高さ です。この強みを生かすために、スカウティングの方法を教え、相手の分析・自己分析を徹底。自分たちの最適なフォーメーションを最後まで模索し続けてきました。
厳しいリーグ戦の中で
今回の大会は4チームのリーグ戦。シード校1校、そして残りの2校は新人戦で負けた相手。ただうちも間違いなく成長していたので、どのチームも実力が拮抗しており、「うまくいけば3勝、最悪3敗」と読んでいました。
初戦のシード校戦では 25-22 まで粘りましたが、最後に取り切れず敗戦。ここで「あと一歩」が足りなかったことが影響し、2セット目は相手に弱点を突かれ 25-9 で大敗。やはりサーブで狙えなかったり、スパイクミスが多かったりと、まだまだ技能の低さがある事を隠しきれませんでした。
ここでの敗戦がチームのメンタルに影響を与え、2試合目も動きが硬くなり、ミスを連発。
17-25.14-25というスコアで敗北 しました。
「ヘラヘラ大作戦」の効果
最後の試合前、私は子どもたちに 「いかにヘラヘラやるか」 という話をしました。緊張しても良いプレーにはならない。むしろ、リラックスするために 「ヘラヘラしながらやる」 という指示を出しました。
試合前も「おい、緊張で顔が仏像みたいになってるぞ」「まさか仏像サーブ打つ気か?」なんてひたすらジョークを言い続けました。
すると、プレーが明らかに良くなったのです。まず子供たちの表情がいい。さらに足が動き、レセプションもいい返球がセッターに入ります。
新人戦で大敗した相手に対して、1セット目は競り合った末に 24-26 で敗北。しかし、2セット目は練習してきたサーブが走り、初めて25-14で相手からセットを奪取。この勝利はチームにとって大きな自信になりました。
迎えた 初のフルセット。子どもたちもどう動いていいか分からない状況です。コイントスの呼び出しにキャプテンが気づかないほどの緊張感でした。
そこで私は 「3セット目やった事ないから、慣れてないのバレちゃってるぞ」「勝ったことないから浮かれちゃってるな」 などと冗談を交えながら、あえてヘラヘラする雰囲気を作りました。
なんとかリラックスする雰囲気を作って3セット目も最後まで頑張りましたが、結果は 20-25で敗北。
惜しくも 初勝利には届きませんでした。
部活動と家庭環境の関係
中学の大会では 4月以降に1年生が加入することでチームが変わる ことがよくあります。強い1年生が入ると、弱点が補強され、さらにレベルが上がるのです。
しかし、うちの学校には バレー経験者が入ることがほぼない。
その理由を考えてみると、うちに来るような家庭は 富裕層が多く、団体競技を好まない傾向 があるように感じます。
「他人の都合に合わせて動く」
「個人の努力だけでは勝てない」
こうした要素を含む団体競技は、効率的な生き方を重視する家庭には 「コスパが悪い」 と判断されがちです。そのため、 水泳や陸上、テニスなど個人競技を選ぶ子が多い のではないかと考えています。
さらに、こうした家庭では 「部活より勉強」「得意な勉強に集中して東大を目指す」 という価値観があったりします。
なのでそもそも苦手なスポーツで団体競技を選ぶことそのものがコスパとタイパが悪い選択だと言えるわけですね。
勝つための合理性と、負けて学ぶこと
このように世の中のいろんな所で、「コストパフォーマンス」や「タイムパフォーマンス」を考え、無駄を削ぎ落とす考え方が広まっています。
もちろん、それ自体は悪いことではありません。効率を重視し、合理的に考え、結果を出す。これは社会で生きていくうえで重要なスキルです。
ただ、それだけを追求しすぎると 「世の中は論理だけで動いているわけではない」 ということを見落としてしまう。
勉強だけをしていれば評価されると思ってしまうと、社会に出たときに 「自分が評価されないのは、自分が悪いのではなく、評価しない世の中が悪いのだ」 という思考になりかねません。
スポーツには、そういった考え方を修正する力があるのではないかと感じています。
なぜなら、努力をしても負けることがあるから。
どんなに合理的に突き詰めて考えても、必ずしも成功するとは限らないからです。
「負けて泣く」という経験
試合が終わった後、子ども達は 初めて負けて泣いていました。その姿を見て、保護者も泣いていました。
スポーツ経験のない子どもたちが初めて心の底から「勝ちたかった」 と思い、本気で悔しがる。
その気持ちが生まれたことが、何よりも大事だったのではないかと思います。
合理性だけでは語れない、感情のある勝負の世界。それを子どもたちが体験し、涙を流したことには、きっと意味がある事なんじゃないかと思うのです。
コスパとタイパを追いかけた場合、うちのような運動の苦手な子達が成果の出ないスポーツに時間をかけることは大きな無駄です。
ただ、そこで頑張っても否定される経験こそが、子ども達が今後たくましく生きていく上で必要な気がしてならないのです。
合理性だけで人は生きているわけではない
バレーボールの大会を通じて、子どもたちは成長し、初めて本気で「勝ちたい」と思いました。地道な努力を積み重ね、分析を駆使しながら試合に挑んだものの、惜しくも初勝利はならず。しかし、その悔しさが彼らの中に強く刻まれました。
現代は「コスパ」「タイパ」を重視する時代であり、特に富裕層の家庭では団体競技が敬遠される傾向があります。
しかし、 合理性だけでは人生のすべてを語ることはできません。努力しても報われない経験、論理では割り切れない感情の揺らぎこそが、子どもたちの成長につながるのではないでしょうか。
もちろん私も合理性だけで言えば部活なんてやらずに少しでも早く帰った方がいいし、いずれ部活は無くなるでしょうから、教材研究をずっとやっていた方がコスパはいいでしょう。
ただ子供達からも保護者からも勝てるようになってきている事を感謝されたりしていて、そこに自分自身も喜びを感じているところがありますし、チームの一員として自分の居場所はここにあると思えたりします。
だから監督として子ども達を勝たせてやれなかった事が悔しくて悔しくて。
今日も負けた試合の映像を朝から見て分析する、というコスパとタイパの悪い行動を私は朝からやってしまうのです。
今回の記事が皆様の参考になれば幸いです。
本日も読んでいただき、ありがとうございました!