白眉最良

教員が書く日々のあれこれ。

高校教員の文化の違いに気づいた話。

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最近学校の公民の授業では「文化とは何か?」みたいなことを偉そうに教えている。

 

ちなみに教科書的に言うと、文化とは

 

「自然や社会の中で生活するうちに少しずつ形作られ、共有され、時代をこえて受け継がれてきた、生きるための知恵であり、有形、無形の財産である」(東京書籍より)

 

なのだという。

 

このように文化という言葉が非常に多義で扱いが難しいので、私としては協力隊の頃の話をばんばんしてお茶を濁している訳である。

 

「そういえば協力隊の訓練の時に、授業終わったら俺ずっと卓球やっててさ。」

 

「そのまま遊んで、友達の部屋に語学のテスト置き忘れちゃったわけよ。」

 

「そしたらそれ見た人達から説教されたの。お前卓球やってる場合か。ほとんど✖️じゃないかって。」

 

「このままで海外なんていけないぞって真剣に怒られたんだよね」

 

「でも海外ってばつ印が◯だったりするわけよ。ほら俺勉強とか手抜かないから。」

 

「むしろかなりきっちりやってその上で卓球まで楽しむっていう嫌なヤツなのね」

 

「だから丸の捉え方一つとっても受け取り方ってこんなに違うんだなって。まぁこれも文化の違いだなって思ったわけよ」

 

みたいなしょうもない話をしているわけである。

 

そう考えると文化とは外国人と日本人でも違うし、世代間でも違うものである。

 

また中高一貫で働いていると、高校教員と中学教員の文化の違いみたいなものも感じている。

 

つい最近、中学教員での飲み会中に同僚がこんな発言をしたのである。

 

「高校の先生って家族の写真デスクに飾るよね」

 

言われてハッとした。そういえば職場に家族の写真を飾ったりデスクトップにしたりしている人が何人かいるのだが、思い出してみるとみんな高校の教員なのである。

 

うちの職場だけかもしれないが、明らかに高校の先生が家庭の写真持ち込む率が高い。

 

いや、むしろこれまでの経験を照らし合わせた時に、私は中学校の教員が家族の写真を飾っている人を見たことがないのである。

 

ちなみに自分自身が家族の写真を飾ることを想像したのだが、なんというか、こう言っては何なのだが、恥ずかしくはないのかと思ってしまった。

 

家族を想うことは素晴らしいことである。そしてそれが働くモチベーションなのも分かる。

 

しかし、しかしである。

 

それは職場まで持ち込むべきものなのだろうか…。

 

そう考えてみると高校の先生というのはなかなかその辺りの職場と家庭がシームレスな人が多い気がする。(男性教員に限る)

 

先日の文化祭も何人かの男性教員が家族を呼び、自分の子供や奥様と一緒に文化祭を回っていた。

 

ちなみに我が妻に文化祭に来る気はあるのか聞いてみたところ、「誰が行くか」との返答だった。

 

多分来られても私もちょっと恥ずかしくてうまく立ち回れなかった気がする。

 

(でも職場を家族に見せるのはいろんな意味でいいことだと思う)

 

このように高校の先生達は家族の姿が職場でもチラチラ見え隠れする。そういう文化の違いがあるのだろうなと思う。

 

ちなみに飲み会の場でそのことについて話していると、同僚がこんな発言をしていた。

 

「あれ(写真)は懺悔なんだ」

「高校の先生達はもはや中学教員より忙しい」

「部活で土日もいないし、文化祭の準備ともなれば夜も遅くなるし、生徒が帰らないから帰れない人もいる」

「だから写真が必要なんだよ」

 

私は何となくその言葉が腑に落ちた気がした。

 

授業時間内は中学の教員の方がコマ数が多くて忙しいが、時間外では高校の教員の方が求められることが多いのだ。

 

そんなこともあって私は、

 

「文化とは、生きるための知恵」

 

という教科書の記載に改めて納得したのだった。