どうもゾウにまたがりバッタをとる。(ほぼ毎日ブログを書く教師) (@sunostrism) on Twitterです。
社会主義と資本主義っていうのは世界の経済を動かしていく上で対立しあう重要な考えだと思うんですけど。
教育の世界においてもこれに近いものがあると思うのです。
人によって「教育の社会主義」的な立場を取る人と「教育の資本主義」的な立場を取る人がいるんじゃないかなと。
そう思ったので,今回はそのことを書いてみたいと思います。
教育の社会主義
私の思う「教育の社会主義」っていうのは,社会主義の考え同様で「みんな平等」を最終的に目指している考え方なわけです。
なので,子ども達に与えられる教育の機会とか質に差があるのを問題とする考え方ですね。
例えば今小学校の卒業式でハカマの着用を禁止する学校が出て来ているわけなんですが,それとかまさに社会主義的な発想だと思うわけです。
他にも担任の先生っていうのは「あっちのクラスだけずるい」とか言われたりすることがないように、あらかじめ給食の仕方や宿題の出し方なんかも年度の初めに確認して横並びにしていることが多いです。
本当は「こっちのやり方の方がいい」と思っていることがあっても学年のやり方に合わせたりしているわけですね。
私は以前生徒に年賀状を出そうと思ったことがありましたが,「他のクラスの貰えない生徒が自分の担任に不満を感じるからやめた方がいい」と言われてやめたことがありました。これもまさに社会主義的な考え方であるように思うのです。
この考え方の良いところは平等であるがゆえに不平不満が出にくいというところでしょう。
一方でより生徒にとって満足度の高いサービスが提供される機会を奪っているとも考えられるわけです。
教育の資本主義
反対にそれぞれの教員や子どもに任せて、自由にやらせることを教育の資本主義と呼んでみようかなと。
つまりこの考え方では担任や子どもがやりたいことがやれるわけです。ICT機器や楽器や授業力など教員のもっているもともとの資本力みたいなものが幅をきかせる考え方なわけですね。
これは,経済の社会の資本主義と同様に教員同士の切磋琢磨からより良いものが生まれる可能性があるわけですが,
一方で「あっちの方が良かった」という生徒の不公平感にも繋がりやすいのではないかと思います。
というか現に家庭によって置いてある本の数や教育環境には大きな差がありますから、ある意味で日本はほとんど資本主義的な教育だと言えると思うわけです。
コントロールするのは学年主任。
そして最近思うのが,学年主任と呼ばれる人の大切さ。
教育活動をしていると上記のように「どこまで平等で行くのか」「どこからは自由なのか」が必ずテーマで出てくるわけなのですが,
その決定権というのは一プレイヤーである担任にあるわけではなく,学年主任に委ねられているケースが多いのです。
だからつまり,主任の教育観そのものが学年に反映されていくとも言えるわけですね。
私はあまり分かりませんが,そういうところにも考えをもっておく必要がある大変バランス感覚を求められる役職だなと最近思っているわけです。
そして大変そうなので私は出来るだけ断りたいし、このまま気楽なプレイヤーでいたいですね。
ということでいかがでしたでしょうか。
皆様の参考になれば幸いです。
本日も読んでくださりありがとうございました!