教職者K

教育について考えるブログ。

教育崩壊の正体。

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今年見学してとても面白かったものに、京都の藍染工房が挙げられる。

 

化学染料による藍染が一般的なこの時代にあって天然酵母による昔ながらの藍染を試みている工房だった。(量販店で売られている藍色の衣服はほぼ100%化学染料である)

 

天然の藍染がいかに防腐・防臭効果が高いか。

 

そしてそれであるが故に「服用」という言葉が現在も残るなど、着ることは医療の一環であったという話はとても興味深かった。

 

(男性が青(黒)、女性は赤というイメージはこの天然の染料を使った衣服を着ることに由来するという話だった)

 

しかしながら、最初に載せている写真のように酵母の状態は日によって異なるので、染まり方に差が生まれる。同じものは2度と生まれない。

 

さらに商業用にするとなると何度も染めなければならず、かなりの手間がかかる。ちなみにこの工房のTシャツを買おうと思ったら三万はする。

 

化学染料のTシャツが千円で買える時代に、三万のTシャツを買おうとする人間が一体どれだけいるか。

 

この工房の製品はとても良いものに間違いはないのだが、商売的にはかなり苦しいらしい。

 

その話を聞いて、「資本主義の中でこのような昔ながらの商品が残り続けるのはかなり難しい」ということを感じたのである。

 

何せ大量生産が不可能である上に、品質が均一でない。値段も高くなってしまう。一般の人が買い求めるのは安くてそこら辺で売っている千円のTシャツだろう。

 

藍染からそんな資本主義の問題を考えたのである。問題があるのは製品では無く、世の中の方なのではないか。

 

さて、話は変わって現在学校の教員不足が叫ばれている。

 

もはや二次募集をしても定員に満たない都道府県もあり、教育崩壊は間近まで来ていると感じる。

 

この原因として多くの人が部活動があることなどを挙げているが、Kは少し違うと思う。なぜなら、部活がない小学校でさえも倍率は低いからである。

 

 

学校教育をここまで危機的なものにしているもの。

 

その正体は資本主義であり、新自由主義であるというのがKの出した結論である。

 

子どもに向かい合うという価値ある時間は、資本主義の中では数値にしづらく、金銭に換算しづらい。子どもが自然な存在であるが故にかける時間も膨大なものになるので、労働力に対して金銭で還元されることが前提の資本主義においてはひどくコスパの悪い仕事になってしまう。

 

そして出来るだけ教員が面倒を見てきた日本の教育は新自由主義(政府による個人や市場への介入を最低限とすべきと提唱する経済学上の思想)とは考え方の対局にある。

 

なので問題なのは、学校ではなくて、昔ながらの教育という営みが評価されない世の中全体の方ではないかと最近思うのである。

 

しかしながら世の中全体が変わるのと学校が変わるのとどちらが早いのかといえば、答えはもちろん後者である。

 

それに世界に資本主義以外の正解が見つかっていない以上、それに従うしかないのだろう。社会主義がうまくいかないのは歴史的にも明らかである。

 

納得はいかないが、学校もいろんなものを手放さなければならない気がしている。