最近,「今の教育の問題ってどこなんだろう?」ってちょっと考えたんですよね。
ホリエモンさんなんかは色んなメディアで「日本の教育は終わってる」「ずっと明治のまま」「もうタブレットさえあれば学校なんか行かなくていい」って言ってるんですけど。
私はそうは思わなくて。
確かに日本ていうのは画一的な一斉形式の授業をやって来たわけなんですけど,ここ数年のアクティブラーニングの浸透によって大分改善されつつあります。
あの大学の講義ですら一方的でなくて,かなり生徒同士の主体的なものが多くなってきているわけですね。
それにそもそも従来の一斉の形式が古いのかといえばそうでもないのです。
例えば子ども達の関係性が出来ていない状況でのアクティブラーニングというのは結構危険で,嫌な思いしたりする子が出てくるんですよね。
他にも教員の力量が低かったり,今のコロナの状況だったりして交流させられない時はむしろ一斉の方がスムーズに授業が流れる場合というのはあるように思うのです。
だから日本の授業については実はそれほど問題がないのではないかと私は思うのです。
じゃあ校則はどうでしょうか。
そこについても今はものすごく見直しが始まっていて,私のいる学校でも「合理性のないもの」「説明できないもの」については無くてしていこうという流れになっています。(多分来年大幅に緩和されます)
だからこれもあと数年で議論されなくなる話だと思うんですね。
他にもジェンダーレスへの対応としてうちの学校でも女子生徒のスラックスが導入されたり…と現場はどんどん変わって来ています。
教員の労働問題っていうトピックも出てきいますが,これまで煩雑だった事務仕事もIT化にともなって統一されてスマートなシステムが構築されていきますから,改善されるのかなと。
(ただこれについては相手が子供である以上,時間もかかるし,手間がかかる仕事であることはある程度仕方がないと思います)
最近だと「わいせつ教員の増加」が話題ですが,多分昔はもっといたのが今は分かりやすくなっただけの話でしょう。
今後法改正の議論がもっと高まればわいせつ教員の再任用もされなくなっていくと思います。
つまり,私がここで言いたいのは意外と学校の問題は内部にないんじゃないかって事なんですよね。
もちろん我々教員は常に内部に目を向けてどこかにアップデートする要素があるんじゃないかって考え続ける必要があるんですけど。
それよりも日本の教育の問題というのは接続する外部の方にあるんだと私は思うんですよ。
具体的に言うと,入試と社会ですね。
例えばどんなに子ども達が探究していても,それを評価できる社会になっていない。
例えば「日本の伝統芸能」だったり「SDGs」について調べてその道のプロフェッショナルになったとしても,それって点数にしづらいし,評価しづらいんですよね。(グレタさんとか,ゆたぼんとかってある意味突き抜けてますけど,あぁいう人たちを日本人て好きじゃないですよね笑)
同じように個性的な人が欲しいっていう割には世の中は個性的な人を求めてないじゃないですか。
新卒者がみんな同じ格好してくるっていうのがいかにも日本人ぽくて気持ち悪いってされていますけど,なんで同じ格好してくるかっていうとそこで変な個性出す奴はとってもらえないからですよね。
だから入試の時に変な恰好していかないように我々も指導したりしているわけですよ。
このように私は学校の中というよりもその接続する外部に問題があるのかなって思ってきたんですよ。
そんな話を高校の同級生である「あっちゃん」にオンラインで飲みながらしたんですけど。笑
あっちゃんは私にこう言った訳ですね。
「それは話の前提として社会があって,そこに当てはめるために教育があるっていう考え方なんだよね。
俺は教育が先にあって社会がその延長にあると思う。
みんなが個性的だったらその人材で会社やるしかないんだもん。」
私はこの一言にものすごく衝撃を受けたんですよね。
私,子ども達が社会で困らないように出来るだけ適合しようとする人間をつくろうとしてたなって物凄く反省させられたんですよ。
そして考え方を変えると,教育っていうのは社会を変えることが出来る可能性があるんだなって。
つまり,
教師である私自身がそういう考え方をもっていなかったのが一番の問題なんじゃないか
っていうのが今回の結論なんです。
そして私のように思っている先生って実は結構いるんじゃないでしょうか。
まぁとりとめない話なんですけど,大事だなって思ったんで書いておきますね。
本日も読んでいただき,ありがとうございました!