教職者K

教育について考えるブログ。

悔しい終わり。

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昨日,無事修了式が終わって,今年度が終了したんですけど。

 

最後の学活では一人一人に

 

「君はこんなところが良いところだね」

 

「ここが本当にクラスにとってありがたかった」

 

「来年はこんなこと頑張ってね」

 

って言いながら通知表を渡していったんですけど。

 

それ自分でやりながら、

 

なんていい子達に囲まれてたんだろう…

 

って改めて思ったんですよ。

 

学校って広すぎて一人じゃ運営できないんですよね。教科の連絡伝えてくれる子とか,机整えてくれる子とか,そういう一人一人の動きがあってようやく当たり前の学校生活が送れている。みんなそれが当たり前だと思ってますけど,それが出来ない子が多いと本当に生活そのものが大変なんですね。

 

今年はそれに加えてコロナ対策としての消毒作業だったりとか,いろんなしなきゃいけないことがあった訳なんですが,そういうのもみんな頑張ってくれたなとか通知表渡しながら思い出して。

 

だからこそ,なんだか悔しくなってきてしまいましてね。

 

自分はこの子たちの良さをこの一年で十分に引き出せたのだろうか…

 

って思ってしまったんです。

 

私なりに取り組んではきましたが,コロナのせいであまりにも変更・中止が多く,どうしても物足りなかった感じは否めません…。

 

学校の一番の魅力はやっぱり子ども達同士の共同による創造だと思うんですけど,それがなかなかできない,そもそも設定できない状況でした。

 

子ども達の時間は返ってきませんから,10代の貴重な一年をそうやって過ごさせてしまったことに対して悔しさが残ります。

 

最後にはクラスのみんなへ「一人一言」をやったんですが,みんなマイナスなこと言わず「このクラスで良かったです」「コロナでも楽しかったです」なんて言ってくれて。

 

その優しさに私はまた悔しくなってしまったんですね。

 

「コロナさえ無ければ絶対もっといいクラス作れたのに!」って。

 

ただまぁポジティブに捉えるのだとしたら,子ども達にはまだ学校生活が残っていますし,私も異動にならなかったので、まだ見るチャンスはあるわけで。

 

今年一年で「コロナ禍での教育がどんなものか」という経験が出来たので,これをベースにして来年度はその中でも一つ一つのことをアップグレードしていくしかないと今は思っています。

 

そんな風に気持ちを新たにした修了式でした。

 

早いものでもう3月も終わり。新しい年度が始まろうとしていますね。

 

これを読んでくださっている読者の皆様の終わりとスタートが良いものになることを祈っております。

 

次も頑張りましょう。

 

本日も読んでいただき,ありがとうございました!

最近の進路に感じる違和感について。

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今って色んな選択肢がある時代なんですね。

 

それこそ、通信制とかサポート校とか。

 

ほとんど人と触れあわないでもネット上で学習を積み重ねることが出来るわけです。

 

親御さんもお子さんがその方向に進むことを望むケースも結構あったりして。

 

中学の段階で、すでに公立校に在籍はあるけど、登校してないなんて子もいるんですけどね。

 

確かに授業うまい先生の話だったり、著名人の話が聞けるメリットはあると思うんですけど。

 

でも私はそれってちょっと危険じゃないかなって思うので、そのことについて書いてみたいと思います。

人と関わらない職業はない

まず、人と関わらない職業ってないですから。

 

オンラインで教育を受けた子が本当に将来周りの人とうまくやっていけるのか心配ですよね。

 

例えどんなに一人で作業してるような人であっても、結局それを受け取る人だったり、買う人がいる訳で。

 

一人で生きてるように見えるだけで、実際は人と繋がってやる仕事がほとんどなわけです。

 

学校っていうのは色んな共同作業を通じて人との距離感みたいなものだったり、コラボする技能を自然と獲得してく場所だと思うんですよ。

 

人とうまくいかない事ももちろんあるわけですけど、それも社会に出る前の経験だと思えば貴重なものじゃないですか。

 

だから、そういう対人スキルがごそっと抜け落ちて世の中に出て良いのかなってまず疑問なんですよ。

 

頭は良いけど、仕事出来ない人になってしまわないかなって。

代替えが効きやすい

またネットで獲得出来る経験値っていうのはある意味で誰でも獲得出来る知識だと思うんですね。

 

みんなが一斉に手に入れられる知識なわけですから、その積み重ねに人材としてのオリジナリティーがあるのかなって。

 

なんというか、せっかく勉強したとしてもそこで得られる力っていうのは実はコンピュータで代替えが効くものだったり、他の人ももっているから、代替えしやすいんじゃないかなって。

 

そして同じような力をもっている人間だったらコミュニケーション能力高そうな方を取りたいなって私なら思いますけどね。

突き抜けてれば別。

今の時代、コンピュータに出来ないこととして、「探究」「共同」「創造」が挙げられていて、それが出来る人間をいかに育てていくかが課題と言われてるわけなんですけど。

 

オンライン学校はその「共同」の部分を抜いて残りの二つに特化させていくみたいなことかと思うんですね。

 

藤井聡太さんが高校中退して話題になってましたけど、「探究」と「創造」だけで食っていけるような突き抜けてる人は別にいいと思うんですよ。

 

(実際将棋界では学校行ってたら一流になれないみたいな話もあるみたいですし)

 

でも多くの子はそこまで力ない凡人ですよね。

 

だからあんまり狭い方向に親御さんも最初から勧めない方がいいと思うんですけど、どうなんでしょう。

 

ちょっと進路相談でそんな事最近思ったので書いておきます。

 

読んでいただき、ありがとうございました!

 

 

 

 

子どもに読みにくい名前をつけてはいけない。

ひろゆきさんが「子どもに変な名前を付ける親は馬鹿」ってことを結構はっきりおっしゃってるんですけど。

 


読めない名前や変な名前を子供に付ける親が馬鹿な理由【教えて!ひろゆき先生】


【ひろゆき】キラキラネームを子供につけちゃう親について語りました マホト

 

私もこれは同感で、自分の子の名前を付けるときに、

 

「読めない名前(漢字)だけはやめよう」

 

っていう風に考えてたんですね。実際に子どもはちょっと他にはいないけど,すぐ読める名前っていうところにこだわってつけました。

 

というのも教員やってる自分の経験からしても,たくさんの子ども達の名前を前にした時に,

 

「(この子の名前、読めないから指名するのやめとこう)」

 

っていう瞬間があったからなんですね。

 

だってもし間違えたらその子に失礼じゃないですか。(もちろん分かるようになってからは当てるんですけど。)他の子の目もあるから,名前の呼び間違えって結構信用問題につながったりしますしね。

 

わずかな話かもしれませんが,でも間違いなくそこで当てられなかった子というのはその一問で発言して伸びる機会を奪われているわけです。

 

名前が読みづらいっていうのはいろんな場面でこういうことが積み重なるんじゃないかなって思うんですよ。

 

そもそも人間て難しいものが嫌いですから。これはエネルギーの浪費を防ぐための本能なんですね。

 

だから難しい名前ってだけで嫌われる可能性があるわけです。

 

現に海外だと発音が難しい名前の人ほど嫌われるっていう研究もあってですね。

 

読みにくい名前を持つ者ほど非行に走りやすく、読みやすい名前の人は社会的に成功しやすいとの報告まで出ているんですよ。

 

そこまで分かっているのだとしたら,親の想いだけでそういった読みにくい変な名前を子どもに一生背負わせるというのは親のエゴであり,ひろゆきさんの言うように「頭が悪い」と言われても仕方がないと思うのです。

 

 「子どもは親を選べない。差別だ」

 

という意見もあるわけなんですけど,知ったうえでそういう嫌な思いをする人が減っていく方が大事なんじゃないかと思うので書いてみたわけです。

 

まぁ名前って難しいですよね。うちの子も読めるけど,これで良かったのかなぁ…ってずっと思い続けてますからね。

 

何にせよ、今回の記事が皆様の参考になれば幸いです。

 

本日も読んでいただき,ありがとうございました!

 

(ちなみに今回の参考文献はこちら。)

 

 

これからの講義の形。

最近映画見たり講義聞いたりするの辛いんですよ。

 

というのも一方的に喋られたり、受信するのがもうしんどいんですよね。

 

私の場合携帯見たくなってソワソワしてしまうんですけど。笑 映画館だとそれも出来ないじゃないですか。

 

話が面白い時はまだ良いんですけど、堅苦しい話を1時間とか2時間とか聞かないといけない時とかはもう地獄ですよね。

 

その点を理解しいてる話が上手い人は、

 

ちゃんとアウトプットのタイミングが講義に組み込まれてる

 

んですよ。

 

「このテーマについて隣の人と話してください」

 

とか

 

「今チャットの方に意見を書き込んでください」

 

っていう時間がある。

 

こういうのこれからの時代は本当に大事だなって最近思うんですよ。

 

一億総発信社会ですからね。みんな自分の意見言いたくてたまらないですから。

 

そこで前に紹介した瀧本先生は、「学生に携帯出させて、Twitterハッシュタグをつけさせて、意見を書かせる」っていうアウトプットを講義内でやってたみたいなんですね。

 

そういうのを授業でやったら面白いなと思ったんですけど。

 

でも、Twitterやってない人もいるし、自分のアカウント見られたりするのに抵抗ある人もいるじゃないですか。

 

だから、何か良いものないかなって思ったんですけど。

 

ラインのオープンチャット

 

が良いのかもなって思ったんですよ。

 

例えばこちらでトークルームを作っておいて、意見が欲しい時は問いかけて画面にどんどん投稿させる。

 

みんな使い慣れてるし、オープンチャットの時は匿名で出来るんですよね。

 

だから、これ良いんじゃないかなって思っていつか使おうと思ってたら、LINEの個人情報管理に不備があるってニュース出てきてガッカリしてるんですけどね。

 

まぁ別になんでもいいと思いますけど、子どもの世界でも大人の世界でも一方的に受信するってのが苦しい時代なのは間違いないですよね。

 

だからそんな「受け手側の発信をどう組み込むか」「発信をどうデザインするか」が必要になるなと思っている次第です。

 

皆様の中でいい方法知ってる方がいましたら教えてください。その辺でICTはうまく使えたら良いのかなと思っています。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございました!

 

 

 

【レビュー】超ストレス解消法

この本を読んだのでレビューを書いておこうと思います。

 

こちらの本は「パレオな男」で有名な鈴木祐さんの書かれた本。 

 

前回読んだ「不老長寿メソッド」が良かったので合わせて買ってみました。

不老長寿メソッド 死ぬまで若いは武器になる

不老長寿メソッド 死ぬまで若いは武器になる

  • 作者:鈴木 祐
  • 発売日: 2021/02/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

yuchrszk.blogspot.com

私の仕事ってかなりストレスかかる仕事なんですよね。更に年齢が上がるにつれて責任が増してきている気がして…。

 

育児とか仕事のストレスとか色んなものが重なりやすい年齢なので,いつ自分も病気になってもおかしくないと思っています。

 

なので,ベストのパフォーマンスをするためにも肉体も精神も整えるために読んでおこうと思った次第です。

 

内容としてはかなりたくさんならんでおり,それらの中で自分に合うものを探すことが必要になるのかなと思いました。

 

また今の時代は無料の情報が溢れているので,かなり知っているものも多かったのですが,それでも手元に置いておいて,ふとした瞬間に振り替えることで,予防策になりそうです。

 

本書では「自然」「運動」「呼吸」の重要性が述べられ,更にはそれを補助するためのアプリ,ガジェット,サプリなどが紹介されています。

 

しかしながら私が最も参考になったのは,一番最初に書いてあった

 

自分のストレスを把握する

 

というシンプルなものでした。

 

「自分が何にストレスを感じて居るのか?」

 

「それは10点満点で言うとどれぐらいのストレスなのか?」

 

それをその場その場で把握すること。それだけで客観的になれるし,予防策が張れることが分かりました。

 

例えば私は

 

「女性からの神経質な指示」にイラっとすることが多い

 

んですね。家でも職場でも。

 

でもそれはレベルで言うと,「1」とかのショートストレスなのですぐ無くなる話なんです。

 

でも最近一番ストレスだったのが,

 

モノをなくした

 

ことだったんですね。

 

私本当によくモノを無くすんです。(私の動きにモノがついて来れないんですよ…)

 

もうこれは昔からの私の特性みたいなもので。

 

どうにかしようと思って行動を振り返りやすいようにメモしてるんですけど。

 

そのメモを無くす

 

っていうのを最近またやりまして。

 

これがもうレベル6ぐらいのストレスだったんですね。見られたら恥ずかしいし。あまりの回数の多さに自分に失望するし。

 

私もなんとかしたくて朝4時から職場探したりしてようやく出てきたんですけど,見つかるまではもう何しても手につかないわけです。

 

 

でもそのストレスが6だって自分で把握出来ましたから,例えば「メモにステッカー張って目立ちやすくする」「メモは必ずバッグに入れて確認して帰る」「スマートトラッカーをメモにつける」とか対策がとれます。

 

 (この辺買おうか迷ってます)

 

 

 

そうやって一つ一つクリアしていくことが大事なのかなって思いました。

 

また不老長寿メソッドの方にも書いてあるんですけど,「良いストレス」ってのもあるんですよね。

 

最近来年度の構想をボスから私も言われているんですけど。

 

やったことがない仕事をすることになりそうで,なんだかワクワクしてるんですよ。 

 

こういうのが刺激になる良いストレスだなってそんな目でも自分を客観的に見ることができました。

 

ということで,日ごろストレス多いな,心配だなっていう人は読んでおいてもいいかもしれません。

 

これ読んで頑張ります。

 

本日も読んでいただき,ありがとうございました!

今学期締めの挨拶

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学年も終わりになってきてるので、締めの挨拶を子ども達の前でしたんですけど。

 

誰も興味ないと思いますけど、備忘録として何を話したか書いておきたいと思います。

 

『私からは学年の皆さんに3つのことを伝えたいです。

 

一つ目は感謝。

 

思い起こしてみれば今年はすごい一年でした。

 

コロナ、地震、断水…

 

国家的な危機ですね。

 

私自身を振り返ってみても、

 

まず、骨折。

 

さらには、スーパーでは中学生に輪ゴムをぶつけられ。

 

家の前には不法投棄をされました。

 

ずっと家庭の危機でしたし、そういう意味でうちは年中緊急事態宣言でしたからね。

 

まったくすごい一年ですよ。

 

思い起こせば一年前は授業が終わるのかどうかさえも見通しが立たない状況でした。

 

そんな中にあって君たちは授業を頑張り、また学年として様々な行事や新しいことにチャレンジしてきました。

 

これは君達の協力があったからであり、おうちの方の理解があったからだと思います。

 

みんなの頑張りには心から感謝したいと思います。

 

ただ、今学期の反省にこんなことを書いている人もいました。

 

「正直、もっと思い出作りたかったです」

 

「せっかくの学校生活の貴重な一年がこんな感じで終わっちゃいました…」

 

人によってはそんな感想を抱いたのも正直なところなのかも知れません。

 

学年の始めに〇〇先生から

 

「二年生はサンドウィッチの中身みたいなもの。全体の味が決まる大事な学年なんだよ」

 

と言われましたね。

 

だからもしかしたら、人によってはあんまり具をはさめず、薄っぺらいサンドウィッチが出来上がってしまいそうなのかもしれません。

 

そんな人に私からの提案なのですが、

 

ここはどうでしょう、

 

 

 

 

ピザトーストにしてみては?

 

 

 

あれ?意味わかりませんか?

 

大丈夫です。私の頭はおかしくなっていません。

 

つまりですね、私が何を言いたいかというと。

 

あと一年あるわけですから、最後の一年で沢山の思い出っていう具をのせることを考えるべきだってことなんですね。どうしたってもう今年は帰ってきませんから。

 

あ、ようやく分かってもらえましたか。良かったです。はい、頭はおかしくなってないです。

 

そのためにも2つ目に伝えたいことなんですけど、まず「行動」しましょう。

 

これから体育祭もあるし、行事だって受験だってある。

 

それを思い出深いものに出来るかどうかは君達が行動を起こせるかだと思うんですね。

 

「ちょっと委員長に立候補してみよう」

 

「いつもやらないけど、発言してみよう」

 

そうやって行動することが充実した学校生活につながるはずです。

 

だから、学校が何かを与えてくれるのかを待つんじゃなくて。良いものにしたかったら自分から行動を起こしましょうね。

 

そして最後になんですけど、これはさっきの「行動」ともかぶるんですけど、「失敗」を沢山してください。

 

みんな失敗がダサいとかカッコ悪いとか思ってますけど、それ違いますよ。

 

「失敗」って「行動を起こした証」ですからね。失敗してる人って行動を起こしてる人なんですよ。

 

だから沢山失敗したなって人ほど、実は思い出が残る筈ですし、少なからず失敗した経験を獲得することが出来るんですよね。

 

だから1番の失敗は失敗することじゃなくて「何も失敗しないこと」ですからね。

 

ということで、私からは3つの大事なこと、「感謝」「行動」「失敗」について話させてもらいました。

 

皆さんにとっての最後の一年が今年以上の年になることを祈ってます。

 

一年間、ありがとうございました。』

 

 

メンタルを鍛えるとは。

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これは私の反省として書いておくんですけど。

 

この前本当に久しぶりに練習試合をやったんですね。

 

子ども達も張り切っていたので、私はチームが発足した時に初めて練習試合をしたチームを相手として選んだわけです。

 

前は一回も勝てなかったけど、今回はどうか。

 

そんな成長を見る意味でも良いチョイスをしたかなと思ったんですけど。

 

実際やってみると、あと一点が取れないんですよ。

 

23-25,25-27 とかで、あとほんのちょっとのところでセットが取れないんですね。

 

勝てなくて落ち込んでしまうと、15点ぐらいで終わってしまったり…。

 

私なりにその原因を考えてみたんですが、経験が少ない子ども達はいざ勝負がかかった時に冷静でいられないんですね。

 

もう自分のプレーで勝敗が決まる、あと一点で勝てるかもと思うと気負ってしまって、辺な力が入ってしまう。

 

結果的にそれがパフォーマンスの低下に繋がっていました。

 

(入るはずのサーブもことごとくアウトですよ。)

 

私もあまりのビビりっぷりにちょっとキツイ言葉をかけたりして発破をかけたんですけど、そのことが更に子ども達の動きを悪くして、伸び代を縮めてしまったんじゃないかと大反省しているわけです。

 

そして、今思うとこの時の状況というのは、

 

「勝負のかかる場面で気持ちを落ちつけられない」

 

「得点が取れない時に弱気になってしまう」

 

という子ども達のメンタルコントロールのスキルの足らなさが原因と言えるわけで。

 

その解決策として、「叱る」を選んでしまった自分はプロでないなと思ったのです。

 

子ども達は今年ほとんど試合経験をしていませんから、こういう時にどうしていいか分からなくてなるのは当然なんですよね。

 

だから今思えば、

 

タイムをとって深呼吸を促したり。

 

緊張すると視界が狭くなりますから、遠くを見てからサーブを打つよう言ったり。

 

自分の良いプレーを思い出すように声がけしたりするほうが、はるかに合理的でかつ本番の試合の時にも使えるテクニックになったんじゃないかなって。

 

私が指導する上でそういう冷静なチョイスが出来てない訳ですから、子供達が冷静でいられる筈がありません。

 

何にせよ、メンタルを鍛える方法として厳しい声がけとかっていうのは、今の時代にも合いませんし、控えなきゃいけないなと反省しております。

 

自分の備忘録として書いておきますね。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございました!

 

コロナ禍でやる卒業式のアイディア

つい先日他の学校で卒業生を出したという3年生の主任の先生と話をしていたんですけど,こう言ってたんですね。

 

「思い入れはあったけど,どうしても泣けなかった」

 

ここではもちろんその先生が悪いとか,淡白だとかいいたいのではなくて。

 

どうしてもコロナの中で制限される時短卒業式では気持ちが込みあがってくるのが難しいんですよね。教員も生徒も。

 

大体やるのは卒業証書授与(場合によっては代表のみ),あとは校長式辞,生徒会長の答辞とかですから,堅苦しいまま式が終わってしまうわけです。

 

(まさかPTA会長のあいさつで泣けるってこともないでしょう)

 

じゃあ私だったら何をやるのかってことをちょっと考えてみたんですけど。

 

今年は「合唱の代わりにダンス」っていう感じで私のいる学校では年間取り組んできたんですけど,まさか卒業式でダンスってのもちょっと違うかなと。

 

だから、ここはやっぱり合唱ですね。

 

最近ジョブズ化してるH先輩が三年生を送る会のBGMとしてラッドウィンプスの「正解」を使ったそうで私も聞いてみたんですけど,これめっちゃいいなって思いましたね。

 


【18祭】「正解」RADWIMPSと1000人の18歳、感動の歌声

 

これ歌いたいですよね。まだ聞きなれてないし,歌詞もとてもいい。

 

検索しましたけど楽譜も出て来ましたから間違いなく出来るでしょう。

 

問題はコロナ禍でどうやって合唱すんのかって話なんですけど。

 

ここはもうリモート合唱を取っておいて,本番最後に流すって感じかなと。

 


リモート合唱動画の作り方《スマホだけで出来る!無料で出来る!》【MELOGAPPA】

 

各自歌わせておいてそれをスマホで合成。

 

卒業式で子ども達も自分たちが歌ったものを見れば、驚きもあるでしょう。多分合唱コンクールも厳しいでしょうから自分たちの歌声が合わさる瞬間を最後の最後に聞くことになるわけです。

 

ただ問題は、

 

めちゃくちゃ手間

 

ってことでしょうね。

 

学年だと100人とか,多い所だと200人とかいますからね,その子たちを撮るまではいいにしても編集するのはめちゃくちゃ大変そう。

 

でも例えばクラスごとに動画を完成→最後はその動画同士をミックスとかにすれば出来ない話ではないのかもしれません。

 

もちろん教員にその力量があれば、の話なんですけどね。(絶対嫌がる先生いますね)

 

何にせよ何にもしないと得るものも何もありませんからね。失敗しようがチャレンジした経験が教員にも子どもにも残りますから。

 

別に卒業生出すわけでも何でもないんですけど,思いついたので書いておきます。

 

本日も読んでいただき,ありがとうございました!

 

 

気づく力を高めよう。

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最近自分でも変わって来たなと思うところがあって。

 

それが何か子ども達に動いてほしい時に,指示を出す事よりも問いかけることが多くなったことなんですね。

 

例えば最近だとある子がほとんどクラスの仕事をやらなくて。ペアの子が一人で仕事をやっているっていう状況があったんですけど。

 

呼びつけて「おい、お前ちゃんとやれ」でもいいんですけど。でも,それだと結局言われないとやらない人になっちゃうし,私が居ない場面では動かないかもしれないじゃないですか。

 

だから私はその子を呼んで「君とあの子で分担してる仕事の割合ってどのくらい?」「それどう思う?」って聞いてみたんですよ。

 

もうその時点で何が言いたいか大体分かるんですよね。「(自分がやってるのが)1割ぐらいです…」ってその子は答えて,そこから動くようになったんですけど。

 

同じようにスポーツ指導でも最近OBが来てくれるんですけど,現役の子達より経験がある分はるかに気が利くんですよ。

 

ささっと椅子とか飲み物の準備したり。

 

でもそれを「おい,それは後輩の仕事だろ!!」っていうのは簡単なんですけど,それも結局気づいて動ける人にはならないと思うのです。

 

だから練習の最初に「今日雑巾の準備したのは誰?」とだけ聞いてみました。勘のいい子はハッとした顔して,それ以来雑巾が準備されなかったことはありません。

 

そしてこういう「気づく力」というのを高めておくことがゲームの時にも重要だと思うんです。

 

変化する戦況の中で何が足りないか,そして相手のウィークポイントやわずかな変化に「気づける」か。

 

実力が拮抗していて,競るような戦況の時ほどほんのわずかなひらめきが決定的な結果の違いにつながりますからね。

 

外で見ている監督からの指示よりも,中でプレーしている選手たちの直観や気づきの方が重要なこともたくさんあります。

 

なのでそれを引き出すためにも指導者はそんな的をしぼった問いかけを日ごろからしなきゃいけないと思うのです。

 

何より子ども達は大抵の正しいことはもう分かっているし,分かっていること言われるのって腹立ちますよね。

 

私自身そうですけど,分かってることわざわざ言ってくる人ってカチンときますよ。

 

本人は親切心というか「あなたが出来ていないから」みたいな気で言ってるんでしょうけど,結局動く側のモチベーションをそいでるような気がして仕方ないんですよね。

 

ということで最近思っていたことについて書いてみました。

 

皆様の参考になれば幸いです。

 

本日も読んでいただき,ありがとうございました!

命と向き合う日。

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今日は東北にとってすごく大切な日です。

 

新聞にはここ最近、震災関連のことがずっと特集されていて。

 

昨日の記事ではある小学校の生徒が10年前から髪を切っていない子として紹介されていました。

 

足近くまで伸びた毛は風呂に入るにも1時間はかかるんだとか。

 

本人も面倒だと思っているけれど、切れない。

 

それは、津波で流されて亡くなった父親が撫でてくれていた髪だからなんですね。

 

髪を切ることが父親との思い出を一つ失うことにつながるので、どうしても出来ない。

 

どこかで切らないといけないと思いつつ、切れないままでいるその子の思い…。

 

想像しただけでちょっと目が潤んでしまいました。

 

他にも、あるお父さんは流されてしまった娘さんの車のタイヤを遊具として学校に寄贈し、そこにカモメの絵を描いていました。

 

震災から10年が経ちますが、

 

人によっては10年前の話ではないんだな

 

って改めて思いましたね。今も続いている話なんだなって。

 

同時にこの日というのは、私が常に自分がここにいる意味を考えさせられる日でもあります。

 

受け持つ子ども達も年度を追うごとに震災のことをあまり覚えていない世代に変わってきているのを感じます。

 

今日は学校でも、当時の先生を呼んで話を聞いたり、OBと現役生徒とで震災をテーマとしてディスカッションを企画したりしています。

 

すでに打ち合わせで当時のお話を聞いているのですが、この体験こそが自分にとっての今後の財産であると感じています。

 

ある方は、

 

「子ども、学生にしか出来ないことがある」

 

と力強く言っていました。

 

あの避難所の殺伐とした空気の中で、大人を手伝い、小さい子のために一緒に遊んでくれる学生の姿が希望だったと。

 

中学生から食事を受け取った高齢者の方に笑顔が戻る瞬間があったと。

 

大人はみんな冷静ではいられなかったけれど、日頃から学校でちゃんと教わっている子ども達が一番協力的だったし、人の役に立とうとしていたと。

 

そして、

 

「今日が3月10日かも知れないと思って準備しておく」

 

とも言っておられました。

 

そんな貴重なお話や体験を少しでも次の世代に繋がられるように、微力ではありますが私は私に出来る事をしたいと思います。

 

みんなが少しでも東北を思う、そんな日であれば良いですね。

 

東日本大震災で亡くなられた沢山の方々の冥福を祈ります。