教職者K

教育について考えるブログ。

学校の問題はどこにあるのか?

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最近,「今の教育の問題ってどこなんだろう?」ってちょっと考えたんですよね。

 

ホリエモンさんなんかは色んなメディアで「日本の教育は終わってる」「ずっと明治のまま」「もうタブレットさえあれば学校なんか行かなくていい」って言ってるんですけど。

 

私はそうは思わなくて。

 

確かに日本ていうのは画一的な一斉形式の授業をやって来たわけなんですけど,ここ数年のアクティブラーニングの浸透によって大分改善されつつあります。

 

あの大学の講義ですら一方的でなくて,かなり生徒同士の主体的なものが多くなってきているわけですね。

 

それにそもそも従来の一斉の形式が古いのかといえばそうでもないのです。

 

例えば子ども達の関係性が出来ていない状況でのアクティブラーニングというのは結構危険で,嫌な思いしたりする子が出てくるんですよね。

 

他にも教員の力量が低かったり,今のコロナの状況だったりして交流させられない時はむしろ一斉の方がスムーズに授業が流れる場合というのはあるように思うのです。

 

だから日本の授業については実はそれほど問題がないのではないかと私は思うのです。

 

じゃあ校則はどうでしょうか。

 

そこについても今はものすごく見直しが始まっていて,私のいる学校でも「合理性のないもの」「説明できないもの」については無くてしていこうという流れになっています。(多分来年大幅に緩和されます)

 

だからこれもあと数年で議論されなくなる話だと思うんですね。

 

他にもジェンダーレスへの対応としてうちの学校でも女子生徒のスラックスが導入されたり…と現場はどんどん変わって来ています。

 

教員の労働問題っていうトピックも出てきいますが,これまで煩雑だった事務仕事もIT化にともなって統一されてスマートなシステムが構築されていきますから,改善されるのかなと。

 

(ただこれについては相手が子供である以上,時間もかかるし,手間がかかる仕事であることはある程度仕方がないと思います)

 

最近だと「わいせつ教員の増加」が話題ですが,多分昔はもっといたのが今は分かりやすくなっただけの話でしょう。

 

今後法改正の議論がもっと高まればわいせつ教員の再任用もされなくなっていくと思います。

 

つまり,私がここで言いたいのは意外と学校の問題は内部にないんじゃないかって事なんですよね。

 

もちろん我々教員は常に内部に目を向けてどこかにアップデートする要素があるんじゃないかって考え続ける必要があるんですけど。

 

それよりも日本の教育の問題というのは接続する外部の方にあるんだと私は思うんですよ。

 

具体的に言うと,入試と社会ですね。

 

例えばどんなに子ども達が探究していても,それを評価できる社会になっていない。

 

例えば「日本の伝統芸能」だったり「SDGs」について調べてその道のプロフェッショナルになったとしても,それって点数にしづらいし,評価しづらいんですよね。(グレタさんとか,ゆたぼんとかってある意味突き抜けてますけど,あぁいう人たちを日本人て好きじゃないですよね笑)

 

同じように個性的な人が欲しいっていう割には世の中は個性的な人を求めてないじゃないですか。

 

新卒者がみんな同じ格好してくるっていうのがいかにも日本人ぽくて気持ち悪いってされていますけど,なんで同じ格好してくるかっていうとそこで変な個性出す奴はとってもらえないからですよね。

 

だから入試の時に変な恰好していかないように我々も指導したりしているわけですよ。

 

このように私は学校の中というよりもその接続する外部に問題があるのかなって思ってきたんですよ。

 

そんな話を高校の同級生である「あっちゃん」にオンラインで飲みながらしたんですけど。笑

 

あっちゃんは私にこう言った訳ですね。

 

「それは話の前提として社会があって,そこに当てはめるために教育があるっていう考え方なんだよね。

 

俺は教育が先にあって社会がその延長にあると思う。

 

みんなが個性的だったらその人材で会社やるしかないんだもん。」

 

私はこの一言にものすごく衝撃を受けたんですよね。

 

私,子ども達が社会で困らないように出来るだけ適合しようとする人間をつくろうとしてたなって物凄く反省させられたんですよ。

 

そして考え方を変えると,教育っていうのは社会を変えることが出来る可能性があるんだなって。

 

つまり,

 

教師である私自身がそういう考え方をもっていなかったのが一番の問題なんじゃないか

 

っていうのが今回の結論なんです。

 

そして私のように思っている先生って実は結構いるんじゃないでしょうか。

 

まぁとりとめない話なんですけど,大事だなって思ったんで書いておきますね。

 

本日も読んでいただき,ありがとうございました!

おじさんと言葉の話。

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ファッションと言葉は似ている気がする。

 

どちらも流行り廃りが存在しているところである。

 

そして、「年相応のものを選ぶべきである」という不文律が存在しているようにも思うのである。

 

つまり、「おじさんはおじさんらしい格好をすべきで、若い人の格好をするのは恥ずかしい」という考え方である。

 

同じように言葉にも「その言葉をおじさんが使うのは恥ずかしい」というラインが確実に存在している。

 

先日私はその辺について議論が起こったので書いておきたいーーーー。

 

先日車に乗った際に、私は後部座席に乗った妻に携帯電話を持ったか確認したのである。

 

というのもこの日は妻が買い物中に私が娘を公園で遊ばせておくという算段であり、妻に車で迎えに来てもらうためにも携帯が必須だったのだ。

 

「うん、持ってきてるよ」

 

その妻の返事を聞いて私はこう返した。

 

「良かった。それ無かったら詰むからね」

 

私は何気なく「詰む」という言葉を使ったのだが、これが妻の琴線に触れてしまったのである。

 

「…え?何、詰むって」

 

「やめて欲しい。すごく恥ずかしい」

 

「しょうもない若者みたいなこと言わないで」

 

というのである。

 

あまりにも言われるので私も反論した。

 

「詰むはそもそも将棋用語であり、けして若者だけの言葉ではない」

 

「むしろ将棋から来ているあたり、若者というよりもおじさんこそが使うに相応しい」

 

「この歳のおじさんが『ぴえん』とか『ワンチャン』とか、『とりま』とか言って恥ずかしいと言われるなら分かる。しかし、詰むはその対象にはならない」

 

「詰むはあくまで将棋用語であり、私はそれを使っただけで別に若者ぶりたい訳ではない」

 

そう理路整然と説明したのである。しかし、妻は納得しない。

 

「じゃあなんで日常会話でいきなり将棋用語を使ってくるわけ?要らなくない?」

 

そう言って来たのでまたしても私は反論する。

 

私「それは君が将棋をしたことが無いだけだ」

 

私「『王手』とか、「成金」とか、日常で使われる将棋用語は確実に存在している」

 

そう言ったのだが、やはり妻は納得してくれない。

 

妻「王手なんて日常会話で絶対使わない。」

 

妻「あなたが私との会話の中で王手なんて言ったこと絶対ない」

 

そう言い張るのである。

 

困った私は「なんなん、その高飛車なものいいは」と将棋用語をさりげなく混ぜ込んで反論したのだが、気付いてもらえず。

 

結局そのまま妻は一歩も引かず、彼女は「詰むをおじさんが使うのおかしい説」を譲らなかった訳である。

 

その後、「とりま、昼飯でも食って帰ろうか」とか「ワンチャンあの店やってんじゃない?」とか若者ワードを放り込んでみながら会話していたのだが、面倒くさがられて全てスルーされた次第である。

 

これを読んだ皆様はどう思われるだろうか。

 

「詰む」は本当に34歳のおじさんが使ってはいけない言葉なのだろうか。

 

「それはお前がおかしい」

 

みんなからそう言われたら、私は「ぴえん」なのである。

 

 

 

 

 

 

 

【レビュー】運の良い人,悪い人ー運を鍛える4つの法則

さて,こちらの本を読みましたのでレビューを書いてみます。 

 ここ最近,「運がいい人」ってどんな人なのかが気になっていたんですよね。

 

年末になって宝くじ売り場に人が集まってますけど,当たる人はもちろん運がいい人なわけで。でも運てもうどうしようもないものだと多くの人が思ってるじゃないですか。

 

でも,

 

この本はそんなもって生まれたものと考えがちな運について,

 

「運は作り出せる」

 

としている本なのです。

 

著者は何人もの人を集めて,実際に運がいい人がどのような行動をとっているかを調べているんですね。

 

そんなこの本の概要と感想を今回は書いてみたいと思います。

法則1  チャンスを最大化する

まずこちらです。チャンスの最大化。

 

つまり,くじに当たるなど運がいい体験をしている人はそれだけたくさん応募していたという当たり前の話ですね。

 

当然応募が多い分だけ当選の確率が上がるわけですね。でも多くの人が当たる前に応募を辞めてしまうと。

 

たしかに他の世界を見てもそうで,ピカソって圧倒的に多作なんですよね。その中で何点かが評価されたことで他の作品まで評価されるようになった。

 

だからそもそも手数がどれだけ多いかというのは,運を左右する上で非常に重要だといえるわけです。(ブログとかユーチューブもそうでしょうね)

 

また,運がいい人はたくさんの人に会ったりすることでチャンスを広げているし,リラックスしていることでそもそも幸運に気づきやすいのだといいます。

 

例えば,自分の隣で大好きなアーティストがお茶を飲んでいたとしても,気づける人と気づけない人がいるわけですよね。

 

同様に道端に一億円が落ちていても気づける人と気づけない人がいるわけで。

 

幸運である人にはリラックスしていて周囲の変化や周りの幸運に気づける人が多いようです。

 

法則2 虫の知らせを聞き逃さない

そして2つ目がこれ。虫の知らせを聞き逃さない。

 

つまり,「運がいい人ほど自分の直観に従って行動している」というのです。

 

その例として本書では「感じのいいと思う人」を顔の印象から直観的に選んだ結果,それが大概正しかったことが書かれています。

 

人間は表情や,話し方から直観的に人を判断しており,それは長年培われてきた勘であるので,正しいことが多いようです。

 

(確かに考えてみるとめちゃくちゃ優しそうな顔した性格最悪の人ってあんまりいないですもんね。笑 顔と性格ってある程度同じだと思いますよ)

法則3 幸運を期待する

そして3つ目がこの「幸運を期待する」ことです。

 

運がいい人は常に自分には良いことが起こり,幸運は将来も続くと思っていると。

 

反対に不幸な人は自分にはまた不幸が来ると思っているそうです。

 

これを私なりに考えてみたのですが,例えば結婚詐欺師にあって「どうせ私は次に会う相手もダメだろう…」と考えている人に近づくのは,そういうすさんだ心につけこもうとする悪い人なんですよね。

 

それに,あんまりマイナス思考で暗い人っていうのはエネルギー奪われそうでそもそも話したくないですしね。そうやってまた情報が入ってくる機会を失ってしまうことにもつながります。

 

運がいい人にはいいことがループするし,運が悪いという人にもループする。

 

その考え方の違いが運の明暗を分けているようです。

法則4 不運を幸運に変える

そして最後がこの「不運を幸運に変える」ことです。

 

つまり,そもそも不運が起こっても不運だと思っていなかったというだけの話です。

 

もともと物事には必ずプラスの面がありますから,運がいい人はそのプラスの面に目を向けているとのことでした。

 

例えば私もここ最近まで骨折していまして。

 

骨折そのものは不運ですが,実際のところそのおかげで保険がおりて金額的には黒字でした。それに,他の人が色々と優しくしてくれて人の優しさに気づくことが出来たんですよ。

 

何よりあの恐ろしい妻が骨折中は非常に優しく,私はいい人と結婚したかもしれないとその時思うことが出来たのです。

 

これが骨折していなかったら私の中で妻は変わらず怖いままだったかもしれません。

 

最近は何を言われても「まぁ骨折の時迷惑かけたから仕方ないか…」と我慢出来るのです。(これを「怪我の功名」と言います)

 

つまり,ものごとは考えかた一つでいくらでもプラスに捉えられます。

 

運がいい人というのは,物事に対して「自分は運がいい」と捉えられる人のようです。

感想

本を読みながら一番考えさせられたのは「自分は運がいいのだろうか?」ということです。

 

私は結構ネガティブなところがあるし,人付き合いも面倒臭がるところがあるのでまだまだだなぁと思いました。

 

また私は宝くじなんて金の無駄だとしか思ってませんから,一切買いません。でも買わないものは当たらないですし,そもそも「絶対宝くじは当たらない」と思っているあたりが,法則3(幸運を期待する)に反しているのかもなと思いました。

 

運をよくするエクササイズとして本書の中では,

 

「ご無沙汰してますゲーム」…連絡してない人に連絡する

さいころゲーム」…体験してないことを書き出して,さいころで出たことをやる

「瞑想」…リラックスすることで幸運に気づける

 

なんかが挙げられていました。

 

昨日の記事でも雑談が大事と書きましたが,もっといろんな人と話したり新しいことに常にチャレンジしないといけないなと思った次第です。

 

そんないろんな人にとって自分の生き方を振り返ることが出来る一冊になっていると思います。

 

気になる方いましたら次の読書に是非どうぞ。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございました!

 

雑談をもっとしよう。

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最近雑談てすごく大事だなと思っていて。

 

職場でも人と話したり,オンラインでも友達と会話したりしてるんですけど。

 

そんな雑談の重要性について今回は書いてみたいと思います。

雑談で思考が整理される

人と話していると,自分が何が分かっていてどこが理解が甘いのか分かったりするんですよ。

 

結局話をしていてうまく説明できない部分というのは「私の中で整理されていないこと」だったりするわけですね。

 

なので、雑談することによってこれまで曖昧だった自分の知識不足がはっきりするわけです。

 

そしてその理解が甘い所を更に追求することによって更に新しいものが生まれたりする可能性がある。

 

雑談はそのきっかけを与えてくれる重要なものであるように思います。

他者とは拡張した自分である。

そしてこれも思うんですが、自分一人で体験出来ることには限界があります。

 

他者とはそんな自分の拡張とも言える訳で。

 

雑談によってそんな他者の得た体験が自分の体験として間接的に得ることができる訳です。

 

例えば私は常に「なんか面白い本ないかな」と思ってるんですが、雑談をしていると「この本良かったよ」と紹介してくれる人がいたりします。

 

Amazonのレビューを見ていても自分の興味のあるものしか出てこなかったりするので、これが幅を広げる意味でも大変有意義なんですね。

 

他にもバレーについて他のチームの監督さんと話をしていると、新しい戦術や子ども達への声がけが思いついたりします。

 

自分一人でできることには限界があるので、雑談はその幅を広げる上でも有効ですね。

雑談とは癒しである。

そして話をすることそのものが人間にとって癒しであり、活力であるように思います。

 

人に話を聞いてもらうだけで人って楽になりますからね。

 

コロナのこういう状況なんですけど、高齢者とかは特に会話の少なさがそのまま活力不足に繋がるでしょう。

 

こういう多くの人が困っている時ほど会話しなくちゃいけないなと思います。

最後に。

最後になりますが、すごい人ほど雑談しているなと思います。それだけ情報量が多いんですよね。

 

うちのボスも常に職員と雑談したり、ひっきりなしにどこかに電話したりしていて情報の収集に余念がありません。

 

私も効率ばかり気にして雑談を面倒くさがってしまう所があったんですが、もっと幅を広げないといけないなと思う今日この頃です。

 

本日の記事が皆様の参考になれば幸いです。

 

本日も読んで頂き、ありがとうございました!

私たちは何を残すか。

もうそろそろ私34になるんですね。

 

そう考えたらもう恐ろしい訳ですよ。

 

いつの間にかアラサーだなと思ってたら、もう来年になったら35なわけで。四捨五入したら40ってとこまで来てる訳ですね。

 

40ってあなた。

 

そら歳もとるし、髪も抜けますわ。悲しいほど順調におじさんへの道をひた走ってるわけですね。

 

なんかそうなってくるともう明らかに人生のステージが変わって来ていて,これまでと同じように考えちゃだめだなと思うわけです。

 

後藤新平という人はこんな名言を残しているんですね。

 

「財を残すは下。事業を残すは中。人を残すは上なり」

 

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これを例えば自分がずっとやってきているバレーボールっていう競技に当てはめると,

 

「勝利(財)を残すは下。チーム(事業)を残すは中。人を残すは上なり」

 

っていうことが出来ると思うんです。

 

そしてこれまでの自分の指導が,「勝利」止まりだったんじゃないかとすごく反省しているんですね。

 

私はバレーボール経験者ですし,これまでずっと自分なりにどうしたら勝てるのかを考えてきましたから,それなりに私がチームをもつと勝率が上がります。

 

でも,私が居なくなったあとにチームが続いているかというとそうでもないよなと思うんです。

 

もっというなら,私の指導を受けて指導者側に回った生徒は今のところまだいないんですね。私は人を残せたのだろうかと。

 

つまり,勝つことにばかり特化していた自分の指導というのは後藤新平的に言えば「下」ではないかと思ったのです。

 

まぁまだ私の教え子達はほとんどが成人していないので,これから指導者側に回る子も出てくるかもしれないですけど,もしかしたら教えている私の姿がもっと楽しそうで,希望がもてるものだったら「私も教えてみたい!」と思う子がもっといたのかも知れないなと思うわけです。

 

これを同じように教室にも当てはめたときに「学力」にばかり焦点を当てて,それをあげていくというのは実は「下」なのではないかと思うのです。

 

子ども達が自立して誰がもっても安心して見られるクラスになって「中」。

 

その中から「私も教員になってみたい!」っていう子が生まれてくるようになって,教員を育てられるようになって「上」なのかもしれないと思うわけです。

 

私自身は素晴らしい指導者に恵まれて教員を目指しましたし,ここまで鍛えられてきましたから,やっぱり自分自身もそういう域を目指さなければならないなと最近強く思います。

 

そしてそういう意味でこの仕事は「人を残す」ことが出来るとても可能性がある仕事だと思うわけで。

 

来年はこれまで以上に自分が楽しんで教育活動に当たれたらいいなと思います。

 

(まぁもっというともう少し財も残せるといいんですけどね…笑)

 

本日も読んでいただき,ありがとうございました!

 

 

奨学金を借りてでも大学は行くべきなのか?

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YOUTUBEホリエモンさんが「教えて堀江さん」なることやっていましてね。

 

世の中のみんなが気になっている疑問に対してホリエモンさんが答えるんですけど,これ面白いなぁと思いました。

 

なので私も自分でテーマ設けて今の自分の考えを書くっていう誰も期待してないことをちょっとやってみたいと思います。

 


 

奨学金は借金?ホリエモンがお金についてのギモンに回答

 

この動画ではテーマを「奨学金」として「大学に行くべきなのか?」ってことをホリエモンさんが語っているんですけど。

 

ホリエモンさんは一貫して「大学はコスパ悪い」「もう行く必要ない」と色んなメディアで言ってるんですよね。

 

大体以下の内容です。

 

「本来頭がいい人が行く場所だった大学が頭が悪い人もいける場所になっている。もはや就職予備校状態」

 

「頭が悪い人が大学に行く意味は無い。高等教育機関は本来頭がいい人が行くべき」

 

「大学で習うことのほとんどが就職してからのキャリアに必要ない」

 

「ネットが登場したことによって本当に勉強したいことはいくらでも自分で学習できる」

 

「だから大学はもう行かなくてもいい」

 

こういった内容で大学にみんなが行く現状を批判しているわけです。

 

しかしながら私はそうは思わないし,少なからず今の世の中だったら行けるなら大学はいった方がいいと思っているんですよ。

 

その理由についてちょっと書いてみたいと思います。

頭が悪い上に学歴も無い方が心配

堀江さんは「頭が悪い人が大学に行っても無意味」と言っているわけなんですけど。

 

その言葉を借りるなら「頭が悪い人が大学も行かなかったらもっと大変な人生になる可能性がある」んじゃないかと私は思うわけです。

 

まだまだ企業側にも「大学を出ているか,出ていないか」というのが一つの採用の基準になっていたりするわけですよね。

 

同じくらいの能力で迷ったらやっぱり大学出てる方が勉強してきていると考えられるわけだし,お金もかけてきた分頑張るんじゃないかなって思いそうじゃないですか。

 

だから「頭が悪いけど大学はいった人」と「頭も悪いし,大学も行っていない」では前者の方が可能性が広がるのではないかと思うんです。

 

これがもっと世の中の企業が大卒っていうものを評価しなくなったら話は別だと思うんですが,少なからず世の中がまだ「大学を出て来たか出てこなかったか」でスクリーニングして採用しているところある以上,行けるなら行った方がいいと思うわけです。

 

それに、どんな形であれ興味のあることを調べて論文書いたりする経験、人に理論的に説明したりする経験は人生の上で無駄にならないのではないかと思うのです。

大学は人と出会う場所

ネットの登場で確かに自分の興味のあることはいくらでも追究できるようにはなったわけですけど。

 

でも大学は人と出会う場所でもあると私は思っています。これはネットでは出来ないことですね。

 

大学は「同じくらいの学力」「同じような興味」をもった同年代が日本中から集まっている初めての場でもあるわけで。

 

さらにそこには興味のあることの専門家(教授)がいるわけですね。

 

そういった人たちがすぐそばにいて,酒飲んだりしながら何年も研究してきたことを教授してもらえるというのはけしてコスパの悪い話ではないんじゃないかと思います。

 

また私の周りを見ても,大学の同級生で結婚しているパターンがめちゃくちゃ多いんですよ。(もうみんなそのパターンなんじゃないかってぐらい。)

 

社会人になったらなかなか出会いないですからね。そういう場としても機能してるところはあんじゃないかなって思うんです。

本当に損なのか

金額で本当に損なのかを調べてみたんですけど。

 

奨学金の借入総額は平均324万3000円で、毎月の返済額は平均1万6880円です。

 

これに対して大卒が23歳から60歳までの39年間、高卒が19歳から60歳までの43年間勤務するとすると、生涯賃金は、大卒男性で1億8626万円、高卒男性で1億4964万円。大卒女性で1億3618万円、高卒女性で1億836万円です。

 

つまり、大学行くかどうかっていうのは300万の先行投資で3000〜4000万近い利益を狙うっていう話な訳ですね。

 

これは平均の話なので、もちろん奨学金かけて就職しても企業が倒産しちゃったりして取り返せない人もいる訳なんでしょうが。

 

でも平均的に見たらプラスが出やすい投資なのかなと思います。

最後に。

ただ今のコロナの場合、ほとんどスクーリングが無かったりしてオンライン授業だったりするので、「人と出会う」っていう一つの魅力がかなり制限されてる状況なんですよね。

 

こうなるとまた話が違うというか…。

 

とりあえず私だったら通うの難しかったら大学生向けの救済措置とか探しまくるかも知れません。

 

すでにコロナの影響で急退学者が5000人超えてるとのことで、一刻も早くコロナが落ち着くことを祈るばかりです。

 

とりあえず大学入学について今のところ私はそんな考えをもっています。

 

皆様の参考になれば幸いです。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございました!

子供の問題を大人が解決しようとしてはいけない。

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世の中全体に余裕がないんでしょうかね。

 

最近学校に色々と保護者の方々からご意見いただくことが多いんです。

 

もちろんその中にはすごく適切で,教員にとっても生徒にとってもプラスになるものもあるんですけど。

 

一部はそうでもなくて,こちらとしては非常に違和感を感じるというか。私なりにどう違和感を感じているのかをちょっと書いてみます。

 消費者意識

根底にあるのは消費者意識なのかなと思います。

 

つまり,学校がサービスを与える側で,保護者と子どもはそれを受ける消費者だと思っている方が多い。

 

製品に不良があったら販売元に電話する感覚で,学校から与えられるサービスが不満だった場合は,すぐに文句をつけていい。そう思っている方が多いんじゃないでしょうか。

 

しかしこれはちょっと違うんじゃないかなと思うわけです。

 

というのも本来教育における第一義的な責任は保護者にあるわけで。学校はそのアドバイザーであり,伴走者なわけですよね。

 

だからその子に何か問題があった時に,「学校がおかしい!」とすぐに声をあげるのはちょっと違うのではないかと思うのです。

 

まず自分の教育・取り組みがどうなのかを振り返るのが最初ですよね。

 

例えば部活がそうなんですが,教員の勤務は16:40分までで。そこから先の部活動というのは完全に教員によるボランティアなんですね。

 

(どこも当たり前のように18時過ぎまでやってますけど)

 

だから16:40分以降の練習量が少ないことに対して文句をつけるのは,まさに消費者意識だなと思うわけです。

 

なぜならその時間というのはもはや親が面倒見てもいい時間なわけだからです。

 

練習がしたいなら自分たちで練習の場を設けたり,他の地域のクラブに参加したりするなどやり方はいくらでもあるはずです。

 

しかし,「学校は全然練習してくれない」とクレームがついたりします。

 

そういう感覚がまさしく消費者意識,お客さんの感覚だなと私は思うわけですね。

親が動くことが子どもの主体性を奪う

そして最大の問題点がこれです。親が動くことで子どもの主体性を奪ってしまっている。

 

子どもが家で愚痴を吐き,それを聞いた親がすぐに学校に電話をしてくる。

 

そういう時親の姿を見て,子ども達が学ぶこととはいったいなんなのでしょうか。

 

「都合が悪いことは親に言えばなんとかなる」

「困ったら他の人が解決してくれる」

「嫌なものは文句を言えばなくせる」

 

そんなことを学んだ子どもが,大人になった時に社会にある様々な課題を主体的に解決していける人間になるでしょうか。

 

結局何かある時に「周りの人間が悪い」と周りのせいにする人間になってしまわないか心配なのです。

 

私は別に「学校にクレームをつけるのは良くない」と言いたいのではありません。

 

もちろん正当なものもあるし,子どもの力ではどうしようもない時もあるでしょう。

 

しかし,あまりにも助けを出すのが早すぎたり,本人も親も何もしていないのに助けを学校に求めてくることが多い。

 

結局親御さんの他人任せな生き方がそのまま子どもの生き方になってしまう気がします。

子どもを救うのが一番うまいのは子ども

そして大人は子どもに対して「どうしたら困っているその子を救ってあげられるのか」をあれこれ考えます。

 

しかし、私が思うに,子どもに対しての大人からの声掛けにはそんなに力はありません。

 

むしろ子ども達同士の言葉の方がはるかに効く。

 

というか,子ども達の方が子どもを助けるのが上手いと思うのです。

 

子どもというのは本当に根気強く,一生懸命他の子をなんとかしようとするんですよね。

 

私自身、中学校の頃に不登校になった子にちょこちょこ電話かけてた経験があります。

 

今思うとなんでそんなことしてたのか分からないですけど,私なりに役に立ちたいと思ってたんでしょう。

 

(向こうはどう感じてたのかは知らないけど,親御さんからはお礼を言われました)

 

それと同じことを30人抱えた今出来るかっていうと,ちょっとそこまで丁寧なこと出来ないんですよ。

 

子ども達っていうのは我々が思う以上にピュアで,根気強く人の役に立ちたいと思ってます。

 

そして,その力というのは大人の声掛けよりもはるかに効果があるんですよね。

 

だから,すぐ大人が何とかしようとするのではなく,子ども同士の力をもっと信じても良いのではないかと思うのです。

最後に

ということで,ちょっと最近思っていることについて書いてみました。

 

何かトラブルがあった時というのはある意味で「子ども達にとって,これまでにない価値観を学ぶ時」でもあるわけなんですが,周りの大人がそのチャンスを奪ってしまっていることが多いと思うんです。

 

もちろん大人が環境を整えることは必要ですが,多すぎる手助けはかえって本人の成長を阻害します。

 

その辺のバランス感覚をもった大人がもう少し増えれば学校も子どもも保護者ももっとハッピーになれるのに,と思っている次第です。

 

本日も読んでいただき,ありがとうございました!

 

 

子ども達の前で話す時に踏むべき6つのステップ。

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教員て常に人前で何か話すわけですね。

 

そして学級とか学年集会の場面における教員の話の上手い下手は確実に存在します。

 

子ども達の心を掴むには「そこでどういう話をするのか」が大事ですし、そこでの話が他の担任の先生との差になっていくわけです。

 

ただ、こういった話の仕方については研修がある訳でもないですし、結局「その人のセンス」に任せられている部分が大きいのかなと。

 

なのでこれまでの経験から私が大事だと思っている6つのステップを書いてみようと思います。

 

① ターゲットを想定する

まずこれです。ターゲットの想定。

 

「教室にいる30人の子の中でも、特にどんな子達に向けたメッセージなのか」

 

をはっきりさせます。

 

これが無いとどうしてもぼんやりした会話になってしまう訳で。最終的に誰にも刺さらないメッセージになってしまう可能性もあります。

 

なので、意外とここでそのターゲットがはっきりしているかどうかが後々の大きな差になっているんじゃないかと思います。

 

例えばそれは,

 

「勉強を頑張ろうとしている子達」だったり,「悪いことをしてしまったけど黙ったままやり過ごそうとしている子」だったり。パターンによって様々です。

 

ここでは例として、

 

合唱コンクールで賞が取れなくて落ち込んでいる子達」

 

をターゲットにするとしましょう。

②目的の決定

ターゲットを決めたら,次に話をする目的を決定します。

 

何を伝えたいのか、時間を取って話をする目的はなんなのか。これが無いとまたしてもぼんやりしてしまうのです。

 

ここでは先ほどに続いて例として、

 

合唱コンクールで賞が取れなくて落ち込んでいる子供達を励ます」

 

と目的を設定して話を進めることにします。

③目的を達成するためのキーセンテンスを作る。

 ここが一番大切だと思うのですが、目的を達成するためのキーセンテンスを考えます。

 

これはラップで言うところの「パンチライン」といったところでしょうか。(印象的なフレーズ、言い回しのこと)

 

目的を達成するために最も相応しく、子ども達の記憶に残ると思う言葉を選びます。

 

今回の例だったら、

 

「賞は取れなかったけど、君たちの合唱は最高だった」

 

「私の中での最優秀賞は君たち」

 

とかが上がるかもしれません知れません。分かりやすく,かつ目的から反れていないことが大事なので,ここは慎重に考えます。

④③を補助するような具体例を出す

そして、そのキーセンテンスを補うような具体例を出していきます。

 

人間は具体例を出されると右脳と左脳が刺激されて理解しやすくなるんですね。

 

例えば上の例なら、

 

「曲が終わった時に、一年生の客席から『鳥肌が立った』『先輩達すごい』って声が聞こえて来たよ」

 

「君たちの合唱の時、客席を見たら保護者の人が泣いてるのが見えたんだ」

 

「ずっと練習から聞いて来たけど、間違いなく今日が一番良い出来だったよ」

 

そうやって具体例を出すことで、上のがキーセンテンスである「君たちは最高だった」を理解しやすく落とし込んでいきます。

⑤話の中で子ども達にも質問を振る。問いかける。

そして、人が理解する時というのは、「自分が主体的になる時」ですから,一方的に話すのではなく、時折会話を振ってみるのも効果的でしょう。

 

上の場面なら、

 

「賞は取れなかったけど、これまで練習して来たのって本当になんの意味もなかったのかな?」

 

「これまでの中で友達のいい姿を見つけたりしなかった?」

 

そうやって問いかけられると人間はどうしても考えてしまうので,主体的になってきます。(場合によっては近くの人と時間をとって話をさせることもあります。)

 

そこでどういう答えを子ども達が出すかよりも、主体的に話に参加させることが目的です。

 

子ども達に答えさせたりしながら一方的にならないようにします。

⑥もう一度キーセンテンスを伝えて締める

 そして最後にもう一度,キーセンテンスを伝えて,締める。

 

「今伝えてきたように,君たちの合唱は本当に素晴らしかったし,最高だったよ。クラスにとって素晴らしい思い出が出来たから,この思い出を大切にしていこうね。」

 

などといって終わり。

 

もうメインになることは伝えてあるので,ここは流れがおかしくなければ良いのではないかと思います。

終わりに

いろんな場面があると思いますが,これをある程度なぞることで,「この先生は何を言ってるんだ?」「何言ってるのか分からない」という状況は回避できるのではないかと思います。

 

また笑いを混ぜたり,少し感情的(怒る・泣くなど)になったりするとより効果的に子ども達に伝わることがあると感じています。

 

更に子ども達に何を伝えたいのかという意味では,日頃から情報収集して有意義な情報を集めておくことも非常に重要だと思います。(勉強してない人は教える資格がないんですよね。)

 

ということで,私なりに子ども達の前で話す時の6つのステップについて書いてみました。

 

今回の記事が、皆様の参考になれば幸いです。

 

本日も読んでいただき,ありがとうございました!

GIGAスクールは3年生を送る会でガンガン使おう。

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学校はそろそろ3年生を送る会のことを考え始めなければいけない時期なんですよね。

 

これまで頑張ってきた三年生を送り出す大事な会ですし、後輩達にとっても達成感を得られる良い機会なんですが、今年はその運営が難しい。

 

言わずもがなコロナです。今学校は全校を集めて何かすることが出来ない状況なんですね。

 

何とか学年を分散して入れたとしても、どうしても一体感は無くなってしまいます…。

 

そもそも去年は準備までしっかりしたにも関わらず一斉休校で中止。

 

準備してきた子供たちは全てその場を奪われてしまったわけです。

 

今年はどうしようかを考えていたんですが、そろそろGIGAスクールで子供達にタブレットが配布されるんですよ。

 

だから、感染対策しつつ、この

 

タブレットをフルに使う

 

というのが面白いかも知れないと思っているわけです。

 

例えば、動画に出し物を撮ってしまって編集してそれぞれのタブレットで見せる。1時間のドラマみたいなイメージですね。

 

いざ休校になったとしてもこれだったらみんなが見ることが出来ます。

 

更には動画編集や撮影そのものを生徒に任せることでそこにやりがいを見出す生徒もいるでしょう。(今そういうの好きな子とても多いですし。)

 

あと私が面白いと思っているのがトリック動画です。

 

編集出来るならそれを最大限活かすような構成が面白いんじゃないかと。

 

中丸君のこの辺の逆再生動画とか。

 


中丸雄一の逆再生動画

 

他にも調べると色んなトリック動画が出てきます。

 

 


最高の楽しいビデオを作るためのトリック15

 

こういった動画を参考にして生徒会の子達と送る会に向けた動画を作ったりするのも面白いと思うのです。

 

他にもタブレットさえあればYouTubeを経由したライブ配信にしてしまうという選択肢もとれますね。

 

ドローンやジンバルを持っている動画好きもいるので、そういったものを駆使すれば教室内や校舎を使ってこれまで見たこともないような動きのある絵が撮れるかもしれません。

 

そして、私はこの取り組みがまだ教育現場に馴染みのないタブレットを子どもにとっても教員にとっても身近にし、使い方の幅を広げる機会になるんじゃないかなと思っているわけですね。(もちろん私にとってもです)

 

学力向上よりもエンタメ的な使い方に強さを発揮するのがICTなのではないかと。

 

だから、今のところは「三年生を送る会」✖️「GIGAスクール」という掛け算で何が出来るかを考えているわけです。(まだ何も動いてないですけどね)

 

他にもこんなアイディアがあるよ!

 

ってのがありましたら、ぜひ教えてください。

 

今回の記事が皆さんの参考になれば幸いです。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございました!!

運がいい人になるために行動を起こしたら思わぬものが手に入った話。

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クリスマスパーティーに誘われたんだけど、どうする?」

 

って妻から言われたんですよ。

 

なんでも娘の習い事で知り合った奥さんから誘われたそうで。新築で家建てたので、是非どうぞとの事だったんですね。

 

でも今コロナじゃないですか。

 

それに私は誰一人知らない状況ですから、かなりアウェーになることが想像されるわけで。

 

ちょっと抵抗を感じたんですね。

 

でも先日の記事で「運がいい人は人脈を広げる方に動く人」って書いたじゃないですか。

 

suno200002000.hatenablog.com

 

だから私もいつまでも家で本読んでブログばっかり書いてちゃダメだと思いましてね。

 

まぁ感染対策してれば大丈夫だろうということで、マスクして検温して。

 

出来る限りの対策をとった上ではじめてのお宅にお邪魔することにしたんですよ。

 

ナビを頼りにお家に向かったんですけど。

 

このお宅がまぁ〜

 

素敵

 

なんですわ。

 

玄関入ってすぐの暖炉。

 

さらにリビングには旦那さんの趣味だというワインセラー

 

ワインを飲みながら楽しめるホームシアター…。

 

スマホと全て連動する照明。

 

朝日とともに自動で開くカーテン…etc。

 

もう何から何まで趣味全開でこだわりぬいた家なんですね。

 

出される料理もまぁ素敵で。

 

自慢の暖炉で焼いたピザ…

 

特製のスパイスをつけてあげたフライドチキン…

 

ここはアメリカか。

 

って思いましたよね。

 

絵に描いたようなアメリカのホームパーティーなんですわ。他にも見たことないような海外製品の数々が並んでいて。

 

映えも映え、大映えです。

 

なんでも旦那さんはインスタにも積極的にアップしているとのことで…。

 

子ども同士も本当に楽しそうで、私もここまですごくテンションが上がってたんですよ。

 

 

ミキサーに

 

 

 

「ア◯ウェイ」

 

 

 

の文字を見つけるまではね…。

 

そうなのです。

 

こちらのお宅どうやらそういうお宅だったようで。

 

アウェーだと思ってたら、アムウェイだった

 

 んですね。(←うまい!)

 

私はこれまでのリラックスモードから一転して緊張がはしります。

 

オシャレだと思った見慣れない海外商品の数々をこっそりスマホで検索したら…あぁやっぱり…(そっちの商品か…)。

 

だからこんなにいい家なのか(副収入か)…

 

インスタに積極的なのも…(広報か)

 

今日呼んだのも(勧誘が目的か)…。

 

「こんな生活したくない?」

 

ってこれからアプローチしてくるわけね…。

 

ジリジリ近づいて、最終的にそう言ってくるつもりなのね…。 

 

そう分かった瞬間に思いましたね。

 

「(超帰りてぇ…)」

 

って。

 

こりゃボロ出せないなと思ったので,基本的にマスク着用。あとアルコールも飲まず。

 

結果的にですが、

 

ソーシャルディスタンスはめっちゃとった

 

パーティーになりましたね。

 

(政府が言ってる「マスク会食」こんなにも遵守してるの日本中で私ぐらいのものでしょう)

 

結局この日のうちは特にその話も出されず。

 

娘が眠くてぐずり出したのを私は「(ナイス!)」と内心で思いながらお宅を後にしたわけです。

 

「ア◯ウェイだったねぇー」

 

帰りの車ですぐそういう妻。どうやら妻も気づいていた模様です。

 

「私が気づいてないと思った?」

 

「流石に距離詰めてくるの早いと思ったんだよねぇ」

 

「県外出身だったり、友達少ない人に声かけてコミュニティー作ろうとするんだよね。」

 

「これからは距離とるから大丈夫」

 

「まぁご飯は美味しかったねってことで」

 

なんとまぁ逞しいこと…。

 

どうやら都会でOLをしていた妻はこういうことに慣れっこらしいのです。

 

しかしながら日頃部活ばかりやっていて世間知らずな私は正直ショックだったんですよ…

 

私はいたって純粋に人脈を広げたい、他の業種の人とお話してみたいと思ってたのに…。

 

まぁでも、こういう時にこそ何を得たのか考えるのが本当に運の良い人だと思うんですよね。

 

なので自分はこの体験から何を得たのかを振り返ることにしました。

 

ちなみに今回私が手に入れたものですが、

 

ネットワークビジネスのチャンス」(いらねぇ)

「妻への信頼感」

「人を疑う心」

「ブログのネタ」

 

が手に入りました!

 

一人でも多くの方がそういうものに引っかからないことをいのるばかりです。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございました!