最近研究主任になったんで偉そうに人の授業にずかずか入り込んで見てんですよ。
色々見ていたら,若手の先生がパワポ使ったりしながらかなり作り込んだ授業していたんですね。
それ見ながら私は「昔の自分の授業みたいだな」って偉そうに思ったんですよね。
初任の頃の私の授業って面白い映像をパワポでどんどん出しながら子ども達の興味を持続して展開させるってやつだったんですけど。
でも今は極力パワポ使わないようにしているんですね。
なぜパワポがダメか,その理由について今回は書いてみます。
対話がさえぎられる
これは前もちょっと書いたんですけど。
ようは「対話的」が求められる現代の授業においてパワポを見ないといけない時間があると,生徒同士の対話の邪魔になるケースがあるわけです。
子ども達は真面目ですから,こちらが画面を出すとちゃんと見ようとします。
しかし,そのことがかえって対話を途切れさせ,深い学びへにつながりにくくしていると最近では考えているわけですね。これが第一の要因。
アクティブラーニングでなくなる
あとこれなんですけど。
実はアクティブラーニング(主体的な学び)にならなくなるんじゃないかなって。
というのも,人間て自分が想像するものが最も美しくて,イメージに残るじゃないですか。
実写の映画が元ネタの小説を超えられないのは,小説で読んだ時に自分が創造したものを映像が超えるのが不可能だからだと私は思ってるんですね。
つまり,パワポで具体的な資料や写真を見せてしまうっていうのは学習者の「想像する」っていう主体性を奪ってしまっているのではないかと思ったのです。
ちなみに私には初任の頃に他の先生から言われた言葉で今も覚えている言葉があって。
それが,
「先生の授業はパワポがあるから分かりやすい。俺,小野妹子って女だと思ってたもん」
っていう言葉だったんですね。
私はこれを聞いて,「パワポで小野妹子の絵を提示したことが子ども達の勘違いを防ぐことにもつながっていたのかもしれない」って喜んでたんですけど。
でも,今思うと
そうやって勘違いした小野妹子を自分なりに創造している方がはるかに記憶に残る
んじゃないかなって。
例えばそこで女性キャラクターとかをイラストで描く子がいるかもしれない。そして自分で資料とかを見たときに,「え?こんなやつなの?」ってなればもう小野妹子っていう単語は絶対に忘れないじゃないですか。
だからある意味で情報は絞って学習者の中で世界を広げた方が,主体的で知識としても定着するんじゃないかなって思ったんですよね。
やってる感を出しやすい
とはいいつつも,私は今年の職員への研究テーマ説明をパワポ使ってやっちゃったんですよね笑
そしてこれがもう自分の中で大反省というか,なんかいまいちだったんですよ。
裏を返すと,今思うと自信が無かったんですよね。だからパワポにしとこうと。
テーマも何も前任者の作っていったものですから,その自信の無さをパワポで胡麻化そうとしたわけです。
パワポってそんな感じでよく練られてないものをそれっぽく見せるのにすごく便利なんですよね。
(あとこれ読んでたので,ちょっとデザインが凝ったものが作ってみたくなってしまっていたのです…反省)
「すべらない話」見てると思いますけど,面白い話って話だけで十分なんですよね。映像とか,動画とかいらない。
洗練された話は,話だけで十分伝わるんですよ。
すでにアマゾンはパワポ禁止みたいですし。
少なからず今後の人生においては極力使わずに生きていこうかなと私は思っております。
みなさんの参考になれば幸いです。
読んでいただき,ありがとうございました!