教職者K

教育について考えるブログ。

テストを変えないと教育が変わらない。

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たまに授業批判されたりするんですけど。

 

っていうかされたので、思うところを書いてみますね。

 

私は文科省の言う「主体的で対話的で深い学び」を目指して授業やってる訳なんですけど。

 

そこに対して「これじゃうちの子が伸びない!」という意見を言ってくる方がいた訳ですね。

 

話を聞いてると、これはどうやら「そもそも目指してるゴールが違う」って事が分かったんです。

 

というのもその人からするとゴールは

 

「有名大学合格」

 

「より有利な就職先につけること」

 

なんですよ。

 

自分の子を上の学校に入れることが幸せな人生のためにも絶対の基準なんだなと。

 

(多分自分もコンプレックスがあるんだろうと睨んでおります)

 

そして、そのためには対話とか助け合いを重視されて出来ない子を大切にされる授業だと、能力が伸びきらない、っていう話だったんですね。

 

皆さん、これどう思います?

 

私はそれじゃ結局頭は良くても大成する人間にはならないと思うんですよね。

 

というのも、ひろゆきさんが動画でよく言ってますけど、

 

「世の中の50%は偏差値が50以下」

 

なんですね。

 

(これ事実であって、悪口でも何でもないですからね)

 

だから、頭がいい人が世の中でヒット飛ばしたり、共感を得ていくためには、「頭のいい人しか分からない」ものを作り出す人間じゃダメだと思うんですよね。

 

つまり、「頭の良くない人がどう考えるかが分かる」頭の良い人にならないといけない。

 

教員やってて思いますけど、頭の良い子とコミュニケーションを取るのは簡単なんですよ。推察してくれますから。

 

難しいのはそうでない子とどうコミュケーションをとるかな訳で。

 

私は公立の中学出身でそれこそ家庭環境が苦しい子とか、日本語話せない外国人の子とか学年にいましたけど、そこで色んな背景もった人間と交流したことでかなり耐性がついた部分あると思ってるんですよ。

 

そのことが今の自分の仕事に繋がってるんじゃないかなって。

 

だから、いわゆるできる子だけ集めて伸ばすエリート教育みたいなものには反対してるんですね。

 

でも、なかなかそうはいっても大学の名前とかが子どもの人生にプラスに働くのは間違いないので、その人が言ってることもあながち間違いではないと思うんですよね。

 

そこから思ったのが、

 

 

 

そもそもテストがやっぱり悪い

 

 

ってことなんですよ。

 

文科省が「主体的で対話的で深い学び」と「ギガスクール」を推し進めている以上、その事がはかれるようなテストでないと現場でやってる事との整合性が取れないんですよね。

 

だからまず、テストは今後タブレット持ち込み可能にすべきですよね。学校がそうしてる訳だから。

 

そして、回答について周りの人間に聞いたり、協力して良いことにする。

 

なんか言うなればNASAみたいな試験にして、その中でその子がどう貢献したかみたいなのを測るようなテストの方が良いと思うんですよ。

 

そっちの方が現代社会にも合ってるじゃないですか。

 

そういうテストになっていけば、私の授業ももっと理解してもらえるのかなって思います。

 

とりあえず腹たったので思ったことつらつらと書いてみました。

 

皆さんの参考になれば幸いです。

 

読んでいただき、ありがとうございました!