今回はこちらの本を読みましたので、ポイントをまとめつつ、私見を書きます。
共通一次試験が生まれた背景
「浅間山荘事件」
が関係しているといっているわけです。
というのも共通一次試験が導入されるまで国立大学の入試は「一期校」「二期校」に分かれて独自に試験をやっていたみたいなんですね。
そしてあの事件を起こしたメンバーには
「二期校」
のメンバーが多く含まれていたというのです。
ちなみに東大,京大を始めとした旧帝大は一期校。
つまり,
一期校に合格できなかったコンプレックスが事件の引き金になったのではないか
と当時考えられたわけです。
(確かに今よりも学力信仰が絶対的で学歴コンプレックスみたいなの凄そうな時代ですしね。)
そこから一期二期の区分をなくし,
みんな一斉に受けられる試験にしよう
となったのが今の共通一次試験の始まりのようです。
また大学側も本来研究者であるため,問題を作ることに長けた人間が必ずしもいるわけではないですから,これが受け入れられたようです。
この辺の歴史知らなかったですが,試験のあり方が人の一生を変えるっていう意味でもどういう試験方法なのかってのはすごく重要なんだなと改めて思わされましたね。
英語のスピーキング試験はフェアじゃない
そして本の中では新テストで導入される英語のスピーキングテストについては「フェアじゃないのではないか」としているわけです。
というのも話すとなると,結局帰国子女とかの方が有利になったり,外国人と話すだけの言語環境にある生徒が有利になってしまうのではないか。っていう話なんですね。
ただそれを言い始めたらもう教育の機会の格差っていうのは突き詰めたらキリがないですからね。
文法に重きをおき過ぎている日本の英語教育の「話す」へのシフトチェンジは大事だと思うんですよ。
大体我々だって外国人に話しかけられて多少間違ってても気にしないじゃないですか。
ちなみに世界を見ると英語で中学生を苦しめまくる三単元のSがつかない地方もあるんですね。
(そこの英語がスタンダードになっていたら中学生はsのつけ忘れで減点されることもなかったのに…!)
だから何が正解ってのはそんなに大事じゃないんじゃないかなって思うんですよ。
ちなみに中学生への学力テストで話すテストも行われ始めているんですが,
・隣の人の話す声(解答)が丸聞こえだったり
・それ聞いて答えたり
とかなり公平性に書くテストになってましたね。
個人的に話すテストはあってもいいけど,テストそのものの公平性の向上が必要じゃないかと思いましたね。
アクティブラーニングというエリート教育
本の中で佐藤氏はこう書いているわけです。
「自ら考えをまとめて説得力のある話をするというのは,指導的な立場になる人たちにとって必要なスキル」
「このアクティブラーニングについていけない人たちがどうなっていくのかというのは深刻な話だという気もするのです」
個人的にもアクティブラーニングは絶対に必要だと思っています。
私もこうやって文章書いたりしてますけど,やっぱり自分でアウトプットすると覚えるんですね。
読んだだけじゃ理解が深まらないことを書くことで自分のものにしているわけです。
アクティブラーニングもそうで,人に説明したり意見を交わしたりする記憶が確実に聞いているだけより効果があると思うんですよ。
だからこの方向性には大賛成です。
ただし,対話的になるには自分の中にある材料がすごく大事だとも思うわけで。
ついていけない子は何も言えないまま授業が終わってしまうなんてこともあるわけです。
なのでどんな子も対話的になれるような教師側からの課題の設定が重要なんじゃないかと思うわけです。
大事なのは「学力」があるかより,「目的」があるか。
本読んでて一番思ったのは、
「うちの娘の進路どうしよ?」
ってことなんですよね。
なんかこう,価値観もいろいろあるし,大学に行くことが絶対の正解の時代でもないし,有名大学に進んでほしいとも思ってないんですけど,
ただただ
「自分が好きなこと」
はもっていて欲しいなと。
私はバレーがやりたかったし,教育活動も,何か書くことも好きなんですね。それが出来る今っていうのはなんだかんだ言ってやっぱり楽しいんですよ。
そうやって好きなこととか目的見つけて人生楽しんでくれればそれで良いなぁと。
大学行ってやりたいことが何もないとかってのが一番無駄だと思うんですよね。
だからまぁ結局娘のやりたいことをサポートしていくのが一番大事なのかなと。なんといっても彼女の人生ですから,親がどうこうしたいって思うのっておこがましいんじゃないかなって。
本を読んでそんなことを考えさせられました。
皆様の参考になれば幸いです。
読んでくださりありがとうございました!