どうも大仏です。
大仏先生@ほぼ毎日ブログを書く教師。 (@sunostrism) on Twitter
では今日もこちらの本を参考にしながら昨日の続きを書いてみようと思います。
こちらの本によるとアメリカでは一般的な社会と同じようにとにかく
競争によってサービスを向上させていこう
という考え方みたいなんですね。
よって
・生徒は20校の中から学校を選択できる
・生徒のとるテストの点数で学校が評価される
・教師の能力(子ども達がテストでとる点数)が給与に反映される
・1万8000人の公立教師ランキングなるものが作られている。
みたいです。
考え方はほとんど企業と一緒ですよね。より良いサービスを提示できたところ(教師)が評価されていくので,必然的に良いサービスだけが残るという。
ただここからは私見になるのですが,競争を煽ることの負の側面というのは必ずあると思うのです。
特に考えられるのは,
「教師間の競争」
じゃないかと。
例えば優秀な教師ほど給料が高くなるということは,限られたお金を分配して給与は決定しているわけですから,教師同士が他の教師が能力を伸ばせないように授業ノウハウや学級経営のテクニックを共有しなくなってしまうという可能性も十分に考えられるわけです。
結果的に教師の授業力は向上せず,生徒達はいつまでも学力を伸ばせないままになってしまうことも考えられます。
さらには競争が過激化すればこれまで以上にメンタルにも影響が出てくるでしょうから,教師の離職や休職が出て来ればさらに子ども達の心理状態に良くない影響が出てくるでしょう。
教師同士の競争って,子ども達に平等に教育を与えるためにも変に煽らない方がいいと思うんですよね。
また「学校間の競争」も過激化することが考えられます。
少しでもポイントを稼いで他の学校よりもいい点数を取った方が次年度の入学者を確保しやすくなるわけです。
なのでアメリカでは
勉強が出来ない子を退学に追い込む
みたいな事例まで出てきているようなのです。(言わずもがなテストの平均点をあげるためです)
ゼロトレランス(寛容度ゼロ)教育で校則違反をした生徒に手錠をかけてまで指導するなど,本に書かれている内容はなかなか衝撃的な内容でした。
そして,このような考え方の根底にあるのは,
「勉強できない子に勉強を教えても時間とお金の無駄」
という考え方なんじゃないかと思いました。
確かに力のある子に充実した教育の機会が与えられた方が新しい発見や国を動かすようなビジネスにつながっていく可能性はあるのかもしれません。
しかし,税金とはそういった社会的に恵まれない人にこそ使われるべきものではないのでしょうか。
現にアメリカは世界の人口5%であるにもかかわらず,囚人人口が世界の4分の1だというではありませんか。
つまり,教育に競争を持ち込むことによって
圧倒的な格差社会
が生まれているわけです。
日本が都道府県や市町村ごとの学力テストの結果を公表しても学校ごとの結果を公表しないのはこれらのことを懸念しているからと言えます。
また日本では学校ごとの目に見えやすい競争といえば部活動くらいになるわけですが,こういう学校ごとの競争が学力面でも大っぴらにされてきたら,部活動だけでなく学力でも他の学校に勝つために今まで以上の時間を割くような学校が出てくるでしょう。(放課後も居残りで学習させたり。)
そうなったら今叫ばれている教員の働き方改革なんて少しも進まないのではないでしょうか。
もちろん,競争そのものは否定しませんし,競争することによって人が能力を伸ばしたりするのは事実だと思います。
ただ,それによって貧困を生み出してしまうような教育のありかたというのはいかがなものかと思うわけです。
またその辺を考える上でも
「国家として教育でどんな能力の育成を目指すのか」
という目標が非常に大事になってくるんじゃないかと思いました。
というのも昔は「富国強兵」の時代ですから,経済を豊かにして戦争に勝てる国にするための教育が求められたわけですよね。
「戦争はしないけど,今も経済を豊かにすることが教育の目的だろ」
という人もいると思いますし,それも否定しないんですが,経済成長が人間の幸せだと信じて日本はそれを追い続けて経済大国になった今,一体どれほどの人が自分の人生に幸福を感じているのでしょうか。
教育の目的っていうのは経済成長のためだけではないと思うんですよね。
その辺の
教育の目的をテストの点数とか目に見える数値だけに限定してしまう教育
というのは,なんだかとても恐ろしいもののように私には思えるのです。
特に和を重んじる日本の社会には馴染まないんじゃないかなぁと。
そんなことを感じたんですよね。
(続きます)