最近研究主任ってこともあって評価についていろいろと調べてるんですね。
学習指導要領の改訂に伴って評価の仕方も変わって来てるんですけど。
それがどう変わって来ているのかを教育関係者でない皆さんにも分かるように説明してみようかなって思いまして。
まぁお付き合いください。
点数によるぶつ切りじゃない
そもそも皆さん教員だったら生徒にどう5とか3とかつけますか?
多分テストでいい順につけるんじゃないですかね。
90点以上 5
70~90 4
35~70 3
15~35 2
0~15 1
こんな感じ。実際にこれに授業態度とか提出物とかが加味されて評価がつくことが多いんですけど。(特に高校とかはそういうところ多いですね。)
でも,これはもう違う
って文科省がはっきり言ってるんですね。
というのも,今後は目標となる評価規準がまず文章であって。その中に入っている子達がBになるのです。
(図にするとこんな感じ。我ながらこだわりの無さすぎる図ですいません)
そこまで到達していない子がC。
そしてBの中でも光っている子がAになるわけですね。
そして3観点それぞれで,この感じで生徒を評価して行って。
最終的にその組み合わせで5段階を決めるとなっているわけです。
まぁ3観点すべてAAAなら5だし,CCCなら1ってところでしょうか。
じゃあ何がBの枠になるのかというと,それは学習指導要領に準拠して各校で決めるわけですね。
例えば学習指導要領を参考に社会科の目標を考えると,社会科的な思考・判断・表現の項目は,
「社会的事象を多面的・多角的に考察したり,判断したことを説明したり,それらを基に議論したりしている」
みたいに作れるわけです。
そして,この枠に入る子がBですね。
でも例えば全然社会的なテーマで議論出来ない,社会的事象に対して自分の意見がもてず,コミュニケーションを取れなかったりする子がいたらCになるわけです。
更にその議論の内容が多面的だったり深いものである子はAと評価する。
これらを蓄積して行って年度末に評価をつけることが求められているわけですね。
だからはっきり言うと,もう定期テストはやらなくてもいいのです。
そしてなんでこんな面倒な評価をすることになったのかっていったら,より高度な指導をするためかと思われます。
結局「君は100点だからよし」「20点だからダメだった」では教師側も生徒側もそれ以上成長しないわけですよ。
それよりも「人と議論出来てないからC」とか言われた方が,教師側も生徒側も何が課題でどう努力(支援)していくべきかが分かりやすいですよね。
(例えばその子が少しでも議論しやすいように席を変えてみる,ヒントを与えてみるなどの支援が考えられます。)
こういうのが今「指導と評価の一体化」って言葉で表現されてるんですけど。
つまり,評価だけで終わらないような,指導に生きる評価システムの構築が求められてるわけですね。
提出物で態度を評価しない
そしてこれも文科省がはっきり言っているのですが,「提出物や挙手の回数などで態度を評価するのではない」と言っています。
それらは一時的な性格の表出であり,教科そのものへの態度とは考えられないからです。
例えば私はどれだけ綺麗な字でノートをまとめていてもそのこと自体は評価しません。それは国語や美術の世界の話であって,社会の力ではないわけですね。
しかしながら,その辺のことを理解していない教員が結構いるんですね。
「ワーク出さないと成績下げるぞ」
なんてことが平気で聞こえたりしてくる。これはもう明らかな間違いなわけです。
だからもし今後嫌な先生にそう言われることがあったら,
「先生,新しい学習指導要領では提出物は関心・意欲・態度ではないとされているはずですが?」
「まさかご存じないなんてことはないですよね…?」
「この件は校長先生にご相談させていただいても?」
といいましょう。間違いなく困らせることが出来るはずですよ☆
(じゃあ何が態度なんだって話なんですけど,そこはちょっと話が込み入るのでこのブログではここまでにしておきます。)
まぁ要はこれまでの評価っていうのは,点数とか提出率みたいな表面的なところだけしか見てなかったという反省があるわけですね。
だからこの改定は評価から指導方針を見直すっていう非常にダイナミックな転換で,革命的だなと私は思います。
ただ,実際現場では色々と問題を感じるのでそのことも書いてみます。
教員のレベルが追い付かない
まずさっきの図のBに入ってるか,光ってるAなのかっていうのを本当に正確にすべての教員が判断できるでしょうか。
よく勉強している人もいますが,学校にはアルバイトの講師がいるのも事実です。
採用試験の倍率も下がっている現状にあって,このようなレベルの高い評価方法が本当にとれるのか疑問なのです。
いわば,日ごろ牛丼とかチーズ牛丼作ってたアルバイトに,
『香ばしく焼いたフロマージュ・ド・テット~豚のゼリー寄せ~白いんげん豆のトマト煮込みと香草のソースを添えて』を作ってみなさい
って言ってるようなものの気がするんですよね。
皆さん作れますか?フロマージュ・ド・テット。
だから理想論ではあるんですけど,実現は力量が高い人じゃないと難しいのではないかと思っています。
保護者や子どもが戸惑う
二つ目がこれです。先ほど態度面では提出率などを加味しないと書きました。
実際私も提出することだけにこだわると,ほとんどの子が答えを丸写しして提出してきます。本当に無意味だと思うんですけど。
でもだからと言ってこれからは提出物を成績に加味しないことを生徒や保護者に伝えたらどうでしょうか。
「やったー!ワークやらなくていいんだってー!」
「先生!なんでそんなこといったんですか?!」
「うちの子は一生懸命ワークやっていたのに評価してくれないんですか?」
という混乱につながりかねません。
だからこれは私がここにこれを書いている意味でもあるんですけど。
世の中全体が評価方法が変わってきていることを理解しないといけない
んですよね。本当の意味で実現するためには。
そしてそういう発信を学校からもしていかないといけない。今年はやれなかったのですが,年度の初めにそのような評価についての説明があるといいのかもしれないと思います。
そして,ワークをやることそのものが無駄かというとそうでもなくて,「今度のディスカッションのためには歴史上の人物を覚えていないと何も話せない」みたいな授業があれば,必然的にワークに取り組んで暗記する必要が出てくるわけです。
目標を達成するための手段としてのワークが望ましいわけですね。(現状では多くの子が目標としてのワークになっているので,とてももったいないなと思います)
テストを変える
そして私はテストを変える必要性があると思います。
というのは,テストを点数で出している以上,必ず ぶつ切りにして評価する教員が出てくるからです。
だからここはどうでしょう。これはあくまでアイディアなのですが,4回ある定期考査のうちの2回を小論文にしてしまうというのは。
その小論文に「A」「B」「C」を観点別に評価をつけて返す。なぜその評価になったのか求められた際にはもちろん教員が説明します。
要録にはテストの点数は書かれないですから,5教科500点満点の定期考査は無くてもいいわけですね。
ただいきなりテストが無くなるとなると生徒も保護者も不安が大きくなるので,ここは小論文にする。
大学のテストで一問どーんと題があってそれを1時間かけて解くみたいなことがあったと思うんですけど。そのイメージですね。
例えば私は「第二次世界大戦を止めるとしたら歴史上のどの地点だったと思うか。歴史上の出来事を上げ,そのように考えた理由を述べなさい」っていう作文課題をテストに出したことがあるんですけど。
これを解こうと思ったら時系列とか,歴史的な知識とか色んなことが頭に入っていなければなりません。
だから小論文でも十分に生徒を評価することは出来ると思うんですね。(数学とか理科みたいな理系科目はちょっと難しいかもしれませんが…)
終わりに
ということで,最近の評価に求められることについて書いてみました。
現実ではこのような文科省の意図や流れを加味しながら,これまでの評価にプラスして評価用の記録をストックしていくのが現実的じゃないかなと私は思っております。
評価は生徒の進路にも関わる話なのでこれは本当に慎重になるべきですね。
まぁ情報共有しながらやっていきましょう。
読んでいただいて,ありがとうございました!