教職者K

教育について考えるブログ。

「終わった子が教えて」がダメな理由。

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アクティブラーニングとか小学校のクラスでよく見る手法の一つで、

 

「先に終わった子がまだ出来てない子に教えてあげる」

 

ってのがあると思うんですね。

 

先に終わった子はそれによって自己有用感を感じることができるし、分からない子は教われるから何もしてない子が生まれない、一見良さそうな手法なんですけど。

 

これはあんまり良くないんじゃないかなって私は思うんですよ。

 

なんというか、権力的なんですよね。

 

常に教える側が強い立場になってしまうというか。「教えてやってる」感が出てしまう。

 

教わる側もプライドがありますし、思春期は特に周りからどう見られるかを気にしますから、システムとして常にそれやられるとプライドがズタズタにされるわけですよ。

 

(先輩後輩とかの関係ならまた別ですよ)

 

だからやっぱり分からない側が声を上げることが大事だなって思うんですね。

 

「ここわかんない」

 

「意味わからん。教えてくれ」

 

って分からない側の発信で学び合いがスタートすること。

 

教える側も実は深く分かって無かったりするわけですから、説明してアウトプットしたりすることによって出来る側の知識の定着に繋がります。

 

それに分からない子達の「わからなさ」というものが、実は教える側も理解していない事だったりする訳ですね。

 

例えば、塾で散々勉強してきている子は、分数の割り算はひっくり返してかければ解けるっていう計算は得意だし、楽勝です。

 

でも「なんでそれで解けるの?」と分からない子がふいに質問して来たときにさっと答えられる子はかなり少ないでしょう。

 

そしてそっちを考える方が数学的には大事だったりする訳ですよね。

 

だから分からない側が発信するというのは分かる側がより知識を深めていく上でも結構大事だと思うんですよね。

 

しかも、これだと、分からない側が自分で教えてもらう度を調節できますから。

 

「今日は自分でやってみよう」

 

「あんまり聞くとバカだと思われるからな」

 

そうやって調節出来ることでプライドも保たれます。

 

最近のコロナで生活が苦しい人が多いですが、福祉を頼らずにいる人の原因の多くが、

 

「書類がかけない」

「書き方が分からない」

「聞けない」

「頼りたくない」

 

みたいなプライドの問題でラストワンマイルの福祉が届かない現状があるみたいなんですね。

 

だからこの「分からなさの発信」「人に頼る」というのが、子ども達が最初に触れる社会である「教室」で実現できていることがとても大事だと思うわけです。

 

もちろんそれには授業だけでなく、安心して自分を曝け出せるクラス経営が必要なんですけど。

 

最近ふと見た授業でそんな事を思い出しましたので書いておきますね。

 

皆さんの参考になれば幸いです。

 

読んでいただき、ありがとうございました!