私も教員として年数が経ってきているので,これまで色んなクラスを見てきたように思う。
担任としても教科担任としてもクラスに入ることになるし,研究授業でも人の教室をみたりするので,それこそ100近いクラスは見て来たと思う。(知らんけど)
その中でも一番印象深いのが初めて講師をやる時に教科担当として入った2年生のクラスだ。
ここはもう完全な学級崩壊のクラスだったのである。
授業中に紙飛行機は飛ぶわ,立ち歩きはあるわ。注意しても聞かないわ。こちらがしゃべっても子ども達の会話で声がかき消されてしまう。まともに授業が出来なかった。
担任の先生は何をしているのかと憤りすら感じたのだが,担任の先生はすでにうつ病を発症中。
ゆえにエネルギーが全くなく,代替えの先生も見つからずどうしようもなかったわけである。
子ども達は小学校の頃から大人を信頼しておらず,もうやりたい放題。
私はその時初めて「授業に行きたくない」と心から思ったのだった。プリントで来週の予定が配られるのだが,そのクラスの授業が割り振られているのを見るのが憂鬱なのである。
真面目にやりたい子は何も言えず黙ったまま。学級崩壊とは想像以上に精神に来る。
最近は学級崩壊はあまり中学校では聞かなくなった。全国的に荒れ(校内暴力・学級崩壊)は中学生から小学生に移ってきているようである。それでもこんな経験は二度としたくないなと今も思う。
では自分の担任するクラスがどうかというと,幸いなことに一度も学級崩壊になったことはない。
今のクラスの子達もいたって真面目に授業を受け,その姿は一見とても立派である。
しかし,それがいいかと言うと,そうでもないのである。
少なすぎるのである、自己開示が。
子ども達は一見おとなしくていい子たちなのだが,ある意味で生徒同士でも教員に対しても心を開こうとしない。
こういう子達がストレスを抱えた時というのは,実は荒れている学校以上に大変なのである。
学級崩壊など荒れが見えやすい学級はある意味でいい。そこに大人や周囲の助けの手が入るからである。
しかし,このような一見いい子でおとなしい子たちがストレスを抱えたときにとる行動というのは時に大人の理解の範疇を超えていたりするのである。(←実はつい最近もあったんですよ…)
ちなみに,生徒指導のプロであるうちのボスの話によると,
中学生の自殺が起こった学校のほとんどが学校全体として荒れている学校でなく,むしろ落ち着いた学校である
とのこと。つまり,そういう優等生気質で自己開示が出来ない子達ほど,うまくガス抜きが出来ずに危ないのである。
中学生の非行が減ったのもインターネットの登場で荒れが見えにくくなっただけかもしれない。そう考えるとこれまで以上に子ども達への対応は難しくなってきていて,大人側が気づいていないだけなのかもしれない。
では良いクラスとはどういうクラスなのと言うと,それはやはり
学習に真剣に取り組みつつも,それぞれが自己開示できる空間
なのだと思う。こういうクラスに巡り合えた子ども達は幸せだ。
これが相当難しくて,子ども達が自己開示をするためには絶対的な心理的安全が教室内に保障されている必要があるのである。
「この人たちは私の仲間」
「みんな私のことを分かってくれている」
こういう安心感がないとこういうクラスは成立しないし,そういう空間を作れるかどうかという担任の力量が問われる。
すごい教師のシンプルな授業【The Simplest Lesson by a Japanese Great Teacher, Mr. Tetsuya Tsuji Japan】
私はこの動画を見るたびにいつかこんなクラスを作ってみたいと本当に思う。
動画の中では中国人の生徒が日本語でなんとか発言しようとするのだが,他の子達がそれを真剣に応援する。
きっと最初から優しい子たちばかりではないはずである。普通こういう風にたどたどしくしゃべる子がいたら笑うのが普通の学級(心理的な安全が保障されていないクラス)である。
しかし,この学級では全員がその子を真剣に見守る。私はちょっとそのシーンを見るだけで涙が出そうになって来るのである。
そしてそれを自身はほとんどしゃべらずに実現してしまう担任の先生がすごい。これがプロの技だといつも思う。
だから私はこの動画をことあるごとに見てしまうのである。
今の私はそんなクラスを目指して少しでも子ども達が自己開示できるようにならないか,悪戦苦闘中である。
しかしながら,今年はコロナで子ども達が関わる行事は軒並み中止となり,給食中も無言……。関係性がなかなか出来ないのを感じている。
来週一週間で学校はひと段落し,夏休みを迎える。
このコロナ禍でも子ども達の時間は戻ってこない。
限られた時間の中で自分は何が出来るのかを考える毎日である。