教職者K

教育について考えるブログ。

雪国を読んでみた。

最近初めて川端康成の「雪国」を読んだのである。

雪国 (新潮文庫)

雪国 (新潮文庫)

 

なぜ今更これを読むのか。

 

それは知識のある人たち,頭の良い人たちが,このような古典を

 

共通言語のように使ってくる

 

ことに気づいたからである。

 

大学の先生なんかの話を聞いていると,どうやらこれらの超有名な話というのは,読んでいて当たり前の前提らしい。

 

だから,そもそもこれらの知識がないと,何言ってるのか理解できないのである。

 

例えば以前

 

シェイクスピア的ですね」

 

なんて会話の中で言われたこともある。

 

私はヘラヘラしながら頭の中で「(シェイクスピア的って何?)」なんて考えたりしていた。

 

そもそも文化的背景が違うのかも知れない。私はコロコロコミックとジャンプで育った庶民なのである。

 

正直古典は今見ると読みにくく,難解なものも多い。私としても出来るだけ避けたい気持ちはある。

 

しかし,情報はドンドン柔らかい食べ物のようになってきている。

 

子ども達は動画ばかり見ているが,それはプリンのようなものだと思う。

 

甘くてスルスル入ってくるが,咀嚼していない。

 

たまに読み応えのあるものを読まないと顎の筋力が鍛えられないし,体も作れないのである。

 

なので,基礎体力をつけたい,そんな思いもあって初めてこの雪国を読んだ。

 

あらすじは妻子のある島村という男が芸者の駒子という女性を求めて雪国の新潟に通うという話である。

 

基本的にその男と駒子という女性の関係が描かれる。

 

現代的な小説と比べると,犯人がいるわけでも,伏線の回収があるわけでもなく,エンターテイメントとしては多分,面白くないだろう。

 

私自身,よく分からなかったが,ただ日本語は綺麗だなと思った。なんというか全部見せない美しさがあるのだ。

 

例えば超有名な書き出しである。

 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

 

長いから列車だと推測できるし,雪の降らない土地から,白銀の別世界へと主人公が飛び込んでいく様子がこの一文から伝わる。

 

他にも島村が駒子を回想するシーンでは,

 

「島村は退屈紛れに左手の人差し指をいろいろに動かして眺めては,結局この指だけが,これから会いに行く女をなまなましく覚えている」

 

 

みたいに書いている。全部は書かれていないが,なんともなまなましく,エロティックな描写である。

 

最近思うが,小説とは「マスク美人」みたいなものなのかもしれない。

 

マスクをした女性は可愛く見えるだろう。

 

(最近はコロナウィルスでみんなマスクをしているから,みんな美人に見えて大変)

 

あれはマスクで見えない部分を自分が勝手に想像で可愛く補うからなのだそうだ。

 

小説もそうで,一文で描かれない部分を読み手が勝手に美しく補完する。

 

映画が小説の原作を超えられないのも,そんな風に自分が想像したものが一番美しいからじゃないかと思う。

 

物語に話を戻すと,とにかく芸者である駒子の天真爛漫さが際立つ。その一途なキャラクターが愛らしい。

 

その駒子は芸者であるので,三味線を弾くのだが,そのシーンは打って変わって緊張感があり,冷たい空気の中でその音色が緊張感をもって響き渡る姿が想像される。

 

そして最後は火事になって終わりという衝撃のラストである。

 

なぜ家事なのか?もう私みたいな素人にはよく分からない。

 

ただ一つだけ思ったことがある。

 

三味線の緊迫感のある響きや,駒子の明るく,艶っぽい性格。

 

そして火事の描写。

 

これらを全て際立たせているのが

 

「雪国」

 

という設定なのだと思う。

 

否が応でも雪国の張り詰めた空気や「(火事の)赤と(雪国の)白」というコントラストを想像させられる。

 

 

日本はそんな圧倒的な自然もっているし,川端康成自身はそんな雪国の情景に心を揺さぶられたのではないかと思った。

 

そんなことを感じた一冊である。

 

せっかくの時期なので,普段読めない本に挑戦するのもいかがだろうか。

 

皆様の参考になれば幸いである。