今回は「主体的で対話的な深い学び」の中の
「深い学び」
について私の思うところを書いてみたいと思います。
正直、
主体的(学習者が前向きに取り組んでる)
対話的(学習者達が課題について対話している)
っていうのは共通して分かりやすい部分だと思うんですよね。
んじゃあ、
深い学びって何?
ってなってくるわけで。
そこをどう定義して捉えているのかっていうのは人によって差があるんじゃないでしょうか。
なので、私自身が今思っていることをまとめておきたいと思います。
浅い学びはわかりやすい。
逆説的なんですけど、浅い学びは分かりやすいと思うんです。
簡単に言うと考える余白がないもの。
社会科だと例えば
「鎌倉幕府を開いたのは誰ですか?」
っていうのが超ど定番の知識だと思うんですけど、これを聞いたところで子ども達の考える余白が全くないと思うんです。
「源頼朝」
という答えでしかないし、ググれば一瞬で分かります。そこに学びはないですよね、これは浅いです。
でも例えば同じ場面を切り取るにしても、
「鎌倉幕府の地形図」
だったり、
「鎌倉幕府の政治組織」
だったり
「源頼朝の略歴」
「義経との手紙のやりとり」
なんかが出てきて、
「この資料から分かる源頼朝とこれまで出てきた政治家達との違い(特徴)は何かな?」
と聞いたら子ども達が考える余白がかなり出てくると思うんですよね。
そうやって始まっていって例えば、
「これまでと都の選び方が違う!」
「まず防御すること考えてる。武士だからだ!」
「鎌倉にいても全国の支配も守護地頭でバッチリ!」
ってなっていったらそれは深い学びなのかなと。
学びとは「声」である。
静岡に行った時に教育学者の先生が、
「学びとは声じゃないか」
と言っているのを聞いて以来、授業中の子ども達の声に注目して聴いてるんですけど。
黙ってよく聞いてると
めちゃくちゃ関係ないこと言ってますからね。
「次の授業何ー?」
「給食なんだっけ?」
「めっちゃ眠いわ…」
とかそんなんめっちゃ聴こえてきますからね。
そうなったらこちらの負け
だと思うんですよ。子ども達が課題にハマりきってないというか。深いところまで行ってないからすぐ抜け出せちゃうというか。
反対に友達の発言聞いて、
「あー!確かに!」
って声が漏れる瞬間があったりするんですけど。
そういう瞬間に学びが一段階深くなってるのかなって。そしてそういう瞬間が多ければ多いほど、学びが深まっていってる証拠なんじゃないかと思うんです。
Twitterにもこう書いたんですけど。
子ども達が授業のあとに言う
— ゾウにまたがりバッタをとる。 (@sunostrism) 2020年2月7日
「難しかった!」
は実はいい授業だった証なんじゃないかと思うのです。
なぜなら考えていないと絶対に出ない言葉だから。
子ども達が授業後に言ってくる
— ゾウにまたがりバッタをとる。 (@sunostrism) 2020年2月7日
「先生はこれ(今日の課題)についてどう思ってるんですか?」
って言う言葉を聞くたびに心の中でガッツポーズをしている。
授業終わってもなお人の意見が聞きたくなってるなんて最高じゃない?
なんかそういう声に深い学びになってるかどうかは現れるんじゃないかと思うんですよね。
対話をきっかけにして新しい知識を生み出せているか。
結論みたいな話なんですけど、
深い学びってこれまでの知識をもとに新しい知識を生み出せているかどうか
だと思うんですよね。メタ知識を獲得出来たかどうか。
さらに
アクティブラーニングを目指している以上、その獲得が級友との対話の中で行われなければならない
んじゃないかなと。
今のところ私はそんな風に考えているわけです。
んじゃどうやってそこの領域にアプローチするんだってのを明日以降書いてみたいと思います。
(続きます)