教職者K

教育について考えるブログ。

オリンピック観戦記

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さて皆さま開会式はご覧になられただろうか。

 

私にしては珍しく夜中までがっつりと見てしまったので,感じたことをつらつらと書いてみたい。

 

まず選手入場である。

 

各国の民族衣装は見ているだけで楽しく,選手たちの表情も和やかでお祭り感が漂う。

 

ただ,盛り上がったアルゼンチン代表が飛び跳ねたりくっついたりしている姿を見て,「これすでに密じゃね…?」と思う自分がいた。

 

同じようにネット上ではマスクをしていない選手などを指摘し,批判する声が多く上がっているではないか。

 

これらを見て,私は

 

このオリンピックにおいて日本人は観戦・観覧しているのではなく,監視している

 

ということを強く感じたのだった。

 

選手にとっては気の毒な話ではあるが,パフォーマンスだけでなく,感染対策をきちんととっているか。

 

そんな人間性,そして運営に感染リスクがないかを常にカメラ越しに見られている訳である。

 

ネットのコメントを見ながらそんな息苦しさみたいなものをすでに感じたのであった。

 

更に聖火リレーである。

 

私はこの聖火の最終ランナーが誰なのか以前からとても楽しみにしていたのである。

 

というのも授業で良く扱っていたからだ。

 

1964年の東京オリンピックでは日本は坂井義則という早稲田大学の学生を最終ランナーに選んでいる。

 

これはこの学生が1946年の8月6日広島生まれ,つまり原爆が落ちた日に広島に生まれたからであり,日本政府の平和への祈りや核の廃絶を訴えるメッセージ性が込められていたからである。

 

このように最終ランナーとは政府の姿勢を表す非常に重要な走者なのである。

 

吉田沙保里,ミスター長嶋茂雄,東北の子ども達とつながれていった聖火は最終ランナーの大阪なおみ選手へと渡る。

 

私はこの人選をなるほど,と思った。

 

複雑なバッググラウンドをもつ彼女を最終ランナーに抜擢する,まさしく政府はこれからの時代を「多様性」を表現したのだなと思った。

 

先日うつ病を公表した大阪なおみ選手だが,それも含めて受け入れる多様性の表現だったのではないか,と私は受け取ったのである。

 

しかしながら,ネット上のコメントを見ると,漂う「この人じゃない感」。

 

「最初と最後逆だろ(ミスターが最後だろ)」

 

「なんかしっくりこない」

 

「伊調さんとかにすべき」

 

そんなコメントを見ていて,私は実際のところ国民は多様性なんぞ求めていないのではないか,という建前と本音みたいなものを見た気がした。

 

みんな本当は最終ランナーに日本人らしさを,そしてナショナリズムの高まりみたいなものを期待していたんだろう。

 

私だったら誰に頼んだだろう。もはやこれだけ人間性が見られる時代となると人選も大変である。

 

誰もが納得するのはもはや大谷翔平ぐらいしかいないのではないか。

 

いや,シーズン中で忙しくてさすがに無理か。ホームラン王から遠のいたらそれこそオリンピックが叩かれる要因になりかねない。

 

もういっそ被災地仙台出身,史上初の全日本グランドスラム達成者であり,五輪二大会連続のメダリストである福原愛はどうだろう。

 

聖火どころではなく,ネットを炎上させにいったら面白いんじゃないか。

 

そんなしょうもないことを考えながら私は見ていたのだった。

 

さて,波乱づくしのオリンピックはここから先,どんな二週間を我々に見せてくれるのだろうか。

 

競技に罪はない。

 

始まってしまった以上,楽しんで観戦したいものである。