ちょっと研究授業を見てきたんですよ。
その授業はよく考えられた面白い発問で。若手の先生が一生懸命準備したのが伝わってくる訳です。
子どもも主体的になってましたし、子ども同士が繋がりあって対話もよくしてたんですね。
でも、
いまいちだな
って正直私は思ったんですよ。
なんというか、深みとかコクみたいなものがないなって。
主体的.対話的ではあるけれど、深い学びではない
それが私の正直な感想でした。(言わないけどね)
じゃあその原因がどこかを考えたんですけど、全体共有の場面だと思ったんですね。
大体今の授業は、
面白い発問出す→みんな考える→先生がまとめる
みたいな流れで、この時の先生がまとめる「共有」と言われる場面にその原因があると思ったんですよ。
なんというか、
探究じゃなくて、発表になってる
んですよね。
言うなればこんな感じでした。
「私は、〇〇だから、こう思いました」
「(パチパチパチパチ)」
「僕はこう思いました」
「(パチパチパチパチ)」
そうやって拍手で一回一回場が途切れていく。
みんなが自分の知識や考えを披露していて、練り合わせになっていない。そこに新しいものが生まれる感じがしないんですよ。
例えば一人聞いた後に、
「〇〇君は今の聞いてどう思った?」
と教師が他の子に振って意見を付け加えさせるとか。
他にも
「〇〇君はこう言ってるけど、〇〇さんは真反対の答え出してたよね?」
「あれ?みんな、これどっちが正しいの?」「え、こっち?なんで?」
と対立軸を作って、更に理由を尋ねてみるとか。
そうやって投げかけていったらより深まったと思ったんですね。
本気で議論したテーマというのは子ども達の記憶にも定着しやすいはずですしね。
最近思いますけど、今は情報が溢れてますから、面白い発問は調べればいくらでも出てくるわけです。
「対話」も場さえ設定すれば、ある程度生まれるわけで。
でも、深みを出すための「共有」の場面での教師の働きかけっていうのは、それこそ知識としては教師間でも伝達しにくい。
だから、ここで差が決定的に生まれてるなって思うんですよね。
最近、実習生見てるんですけど、そこでもこのことを痛感していて。
私と全く同じ指導案で同じようにやってもらってるんですけど、どうしても生徒の振り返りを見ていると浅い感想のものが多くて、明らかに私がやる場合と生徒の反応に差がある訳です。
そしてそのことを実習生に伝えようと思って、
「あの場面で私ならこう返すかな。そうしたらもっと深まりそうじゃない?」
なんてアドバイスをする訳なんですけど、同じ場面ていうのは二度と来ない訳なんですよね。
だからその場その場で良い返しが出来るかどうかというのは経験を積むしかないのかなと思うんです。
何というかその辺の共有のテクニックが、発問の選定とかよりも教師の力量が集約するところなんじゃないかと思うので書いておきますね。
読んでいただき、ありがとうございました!