では昨日の続きです。
日本と海外のいじめの違いについて書いてみます。
被害者側を隔離する日本と,加害者側を隔離する海外
日本の場合,いじめ問題が起こった際には被害者側が別室登校だったり,転校だったりすること処置がとられるわけです。
しかしながら海外は逆。
海外の視察団なんかが来ると,日本の教育に関して「なぜ被害者側が逃げなければならないのか」というコメントをすることもあるそうです。
言われてみれば確かにその通りで,悪いのはいじめた側なので日本の「被害者側を逃がす」という対応には違和感を覚えます。
前回の記事にも書きましたが,これは「被害者側の救済に焦点を当ててきた」という日本の教育変遷に由来していると考えられます。
一方で海外は加害者側にきっちりと責任をとることを求める。
この辺は訴訟件数の多さなどとも関係しているのかもしれませんね。
なんでも先生がやる日本と,警備担当がやる海外
日本の場合なんでもかんでも学校の先生がやります。(授業・生徒指導・部活動…など)
その辺海外はきっちり分かれていて,学校に警備担当がいたり,部活は地域の指導者が子ども達の面倒をみたりします。
つまり,なにか生徒指導上の問題(暴力事件)が起こった際は,先生たちは「よし,警備担当のところに行ってこい」と言うことが出来るわけです。
この辺りは日本の教師が多忙化している一員であり,今後そのような専業分化を求める動きはますます加速するでしょう。
ではなぜ日本はこんな面倒なことをしているのかというと,日本の場合は「師」をモデルにしていることが原因として考えられます。
つまり,もともと日本の教育と言うのは「師匠」が弟子の生活を丸抱えしながら教育してきた歴史があるわけですね。そうやって子ども達のすべてに関わりながら育て上げるのが日本の古来からの教育システムなわけです。
このモデルが現代の学校現場にも継承されているといえます。
曖昧な指導の日本ときっちり線をひく指導の海外
日本のいじめはあいまいなままぼんやり終わってしまう事が多いですが,海外では弁護士も巻き込んできっちり行うことが多いようです。(海外は弁護士も多く,訴訟費用も安いので訴訟が身近)
更に多民族国家である場合,学級の中に複数の国籍を持った子がいて,国際紛争の火種になる可能性もあるようなのです。そうなってくると,はっきりと責任の所在を求める必要が出てくるわけですね。
一方で単一民族である日本という国家の場合はあんまり白黒つけてしまうと,そのあとが大変。よって、なんとなく丸く収めるみたいなところがあるのかもしれません。
終わりに。
専業分化が求められていると書きましたが,例えば「いじめ問題は警察(警備)が担当する」と言ったような施策は日本の土壌にはなじまないのではないかと個人的には思います。
というのも海外とは違い,日本のいじめというのはその多くが悪口・陰口だからです。
「言った言わない」は「殴った殴ってない」よりはるかに選別が難しく,海外と同じように対応したところで,果たして本当に子ども達の心が救われるのか疑問なのです。毎日時間を過ごしている教員こそが対応できるポジションにあるのではないかと。
そして,これまで書いてきたのように,「いじめとは文化的な背景を映し出す」みたいなんですね。
文化であるということは
「継承されるし、変化する」
ということ。
日本の場合,両親の日ごろの言い合いや,井戸端会議でのおばちゃん同士の近隣住民の噂話・陰口なんかがそのまま子ども達に受け継がれているのではないかと思います。
更に近年の日本のいじめはスマホやネットを中心にしたものに変化してきました。これは20年前は無かったものです。
なので,ここから先10年のいじめの形もまた変わっていくのでしょう。
我々教員は時代の変化に合わせて変わっていくいじめに常に目を光らせている必要があると言えるでしょう。
今学期はいじめ対応をしながら,そんなことを考えました。
全ての子ども達が安心して学校に通えるような学校にしたいものですね。
皆様の参考になれば幸いです。
本日も読んでいただき,ありがとうございました!