1学期が無事に終わりましたね。(お疲れ様です)
今学期はいじめについて色々考えることが多かったんですけど。
私もいじめに関する本を読んだりする中で、「そもそも海外と日本ではいじめが違う」ってことに気づくことが多かったんです。
なので具体的にどう違うのか今回は書いてみたいと思います。
「いじめ・不登校」として捉える日本と、「いじめ・学校暴力」と捉える海外。
そもそも、日本ではいじめを「いじめ・不登校」とセットで括るのに対して、海外ではをいじめ・学校暴力」とカテゴライズするんですね。
確かによく考えると、いじめと不登校は別物なわけで、これをセットにしている日本のあり方には疑問を感じます。
(逆にいじめって悪口とかもありますから、校内暴力とセットになっている海外のカテゴライズにも疑問を感じます)
その違いはどこから来ているのか。
いじめ研究の第一人者である森田洋司氏は、
「被害者個人の救済」に重きを置くか、それとも、「社会の安全と人々の安寧の確保」に重点を置くかという比重の違いにある。
としています。
つまり、日本のいじめ対策は「被害者の救済」を大事にしているわけなんですね。
これは日本の教育の変遷に起因します。
80年代に重大ないじめ問題が発生し始めた時に、多くの親が
「自分の子は大丈夫なのかしら…」
と心配したわけです。
そこから、子どもの不安を解消するためにも各校にカウンセラーが置かれました。
そしてこれがそのまま不登校対応にも有効であることから、日本ではいじめと不登校がセットになって論じられるようになっていったわけです。
一方で後述しますが、海外では大人の世界でも暴力事件が頻発します。
その発端を止め、社会全体の安全の確保をすることが海外では期待されるので、いじめ問題を「学校暴力」として捉えることが根付いたと考えられます。
暴力がダメな日本と、陰口がダメな海外。
これは海外で赴任経験のある先生の話からなんですが、
「日本では暴力が絶対ダメ(陰口はまぁしょうがない)」
という雰囲気があり、
「海外では陰口が絶対ダメ(暴力は時として必要)」
と考える雰囲気があるのだとか。
この話はそのまま先のカテゴライズの違いに通ずるものがあると私は思いました。
そもそも海外には革命文化みたいなのがあって、時として何かを訴える時に暴力が必要だと考えているところがあるのかもしれません。
一方で日本は暴力慣れしていないムラ社会。
その中では、陰口・悪口が必要悪として社会に存在しているのかもしれません。
このようにいじめとは文化的な背景を映し出す部分があるので、単純に同じ「いじめ」として話をするのが難しいところがあるのです。
(続きます)
今回の参考文献はこちら。
皆さんの参考になれば幸いです。
本日も読んでくださり、ありがとうございました!