10年ほど前だが、私はスリランカという国で青年海外協力隊として活動していた。
発展途上国であるスリランカでの2年と3ヶ月に及ぶ生活は,ある意味で事前に私がイメージしていた「途上国」そのものだった。
私は子ども達にバレーボールを教える活動をしに行ったのだが,そもそもスリランカの学校には日本だったら当たり前にある「体育館」という設備が無いのである。
だからバレーをする時は,グラウンドを掘って木の支柱を立て,ネットを括り付けて練習をした。
学校にボールが一つしかない学校がほとんどで,全校生徒で一つのボールを追いかけまわす。熱帯の炎天下の中で、靴を買うお金の無い子ども達は裸足で足の裏をやけどしながら練習に取り組んでいた。
そこまでは私のイメージする発展途上国だったのだが,一つだけイメージしていたことと全く違ったことがある。
それが,
彼らが少しも不幸そうでなかったこと
だった。
非常に勝手で失礼なイメージなのだが,私はもっと途上国の人は貧困に苦しみ,悩んでいると思っていたのである。
(現実的に彼らの平均月収は日本円にして2万円くらいである。)
しかし,実際はどうか。
彼らからはそんな悲壮感を全く感じず,いつもとても明るい。大人たちはいつも私を誘い,酒を飲んでは陽気に踊っていた。
そして私が練習に行くたびに子ども達は「これ食べてください」と自分の弁当を食べずに差し出してくるのである。また,私に弁当をあげてしまった子には他の子が当たり前のように自分の弁当を分けて食べ始めるのだった。
道を歩けば外国人が珍しいのか,たくさんのスリランカ人にひっきりなしに話しかけられる毎日。
だから、日本に帰国した時にはそのギャップに驚いたのである。
当たり前だが、誰も私に話しかけてこない。
街を行く女性はみなとてもお洒落だったが,同じ顔に見えて表情がなかった。
建物の大きさも,サービスの質も,人のスピードも。あらゆるものがスリランカより日本の方が優れているのは間違いない。
しかし,「人の表情」だけはスリランカの人達の方が明るかったと,帰国した時,確かに思ったのである。
私は何も「経済的なゆたかさは幸せとは関係ない」とは言わない。
今回のコロナの件でも思うが,経済的なゆたかさは人間が生きていく上ではまず保証されるべき絶対に大事なものである。
現にスリランカの首都コロンボでもロックダウンが行われ,生活に困窮した人々が870円の現金給付を巡って押し寄せ,先頭にいた女性三人が死亡するという悲しいニュースも飛び込んできた。
だから経済や金銭的な豊かさは現代社会のベースとして絶対に必要なものだろう。
しかし,それをゆたかさの唯一の基準として追い求め,世界トップクラスのGDPの国になった日本を一体どれだけの人が本当の意味で「ゆたか」だと感じているのだろうか。
日本は経済成長を追い求めるのと同時に「良好な人間関係」や「人との社会的なつながり」という経済以上に大事なものを犠牲にしてきたのではないだろうかと思うのである。
核家族化が進み,離婚率は上昇し,会社や家庭内での人間関係のトラブルが激増している。
だから経済的なゆたかさを達成した日本が次に獲得すべきは,そんな信頼出来る「つながり」なんじゃないだろうかと思うのである。
もはや石器時代には戻れないので,我々が昔のよな方法でコミュニケーションをとり,互助的な関係を築くことは不可能だろう。
しかし,テクノロジーの進化によって新しいつながりを創造できるようにもなって来ていると思うのである。
震災の時もそうだったが,今回のコロナはそんな人とのつながり方を再確認する機会にもなるのではないだろうか。
このコロナを機とし,日本が本当の意味でゆたかな国になっていくことを祈っている。