前回のこのツイートにも関連するんですけど。
学校の教員には
— ゾウにまたがりバッタをとる。 (@sunostrism) 2020年2月29日
「子どもを統率して、ビシッとした集団を作ることに生きがいを感じてるタイプ」
と、
「子供の主体性にある程度任せて、伸び伸びやらせたいタイプ」
がいる。
振り返ってみると、今年の学年スタッフはみんな前者で、私は後者だったような気がするわ。
よくやったよ、私ったら。
学校ってこうやって,
「厳しい先生」と「優しい先生」
「締め役」と「緩め役」
みたいに役割を分担して子ども達の教育にあたることがよくあるわけなんですね。
例えば何かあった時に事前に打ち合わせをしておいて,
「この件は私がキツく言うから,先生はフォローに回ってね」
なんて打ち合わせをしてから指導にあたるわけです。
よくある光景なんですが,これが私は
なんか嫌だな
と思っていて。
というのも,こういう手法から私は「良い警官・悪い警官」っていう警察のやっていることをイメージしてしまうんですね。
以下引用です。
良い警官・悪い警官は、明確に相反するやり方で対象者へのアプローチを行う2人の質問者のチームから構成される。2人の質問者が対象者に対し交互に質問を行う場合と、同時に対面する場合がある。
「悪い警官」は対象者に対し、粗暴な非難や侮辱的な意見、脅迫などの、攻撃的かつ否定的な態度を取り、基本として対象者との間に反感を作り上げる。
これにより、対象者に同情的な役割を演じる「良い警官」の活躍の場が整えられる。
「良い警官」は対象者に対し支援や理解を示すように見せかけることで、基本として対象者への共感を演出する。
また、「良い警官」は対象者を「悪い警官」の締め上げから庇護する。
対象者は「良い警官」への信頼感や「悪い警官」への恐怖から、「良い警官」と協力関係が結べるのではないかと思い込み、結果として「良い警官」へ協力するために、色々な情報を話してしまう。(Wikipediaより)
このようにですね。「怖い」と「優しい」を組み合わせるというのは,対象者の心をコントロールする上で極めて有効なんですね。
ただし,こういうやり方が許されるのっていうのはあくまで犯罪とか,人権問題に関わる時なんじゃないかなって私は思うんですよ。
平時の指導の中でこうやって子ども達の感情の起伏を揺さぶることで大人の都合の良い方向へ導いていくというのは洗脳に他ならないんじゃないかなって思うんですよね。
そしてこの考えの根底にあるのっていうのは,
「大人の考えることが正しい」
っていう発想だと思うんですよ。
大人の敷いたレールを子ども達がちゃんと走れるようにコントロールすることを教育の目的としているというか。そのレールをちゃんと走れるように数人で叱ったり褒めたりしながらレールを走らせているわけなんですね。
先にも述べた通り,犯罪に関わることや人権問題などある程度は私もそういう要素も必要だと思うんですけど。
でも,平時の指導でそうやって押さえ込まれることを覚えてしまったら子ども達は新しいことなんて考えるようにならないと思うんですよ。
特に,
正解がない今の時代は,子どもの側が新しい正解をもっている
っていう可能性だってあるんじゃないかと思うんです。
まぁ私も多分無意識に良い警官と悪い警官になっちゃってる時があると思うんですけど,そもそも教師であって犯罪を取り締まる警察官ではないし,担っている役割はそれじゃないと思うんですよね。
なのでそうやって「厳しくいく」「優しくいく」みたいな指導のスタンスや議論がそもそもどうなんかなって思ってるわけなんですよ。
皆様はいかがでしょうか?
異論・反論お待ちしております。