教職者K

教育について考えるブログ。

学校の勉強は社会に出た時に役に立つのか。

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「学校の勉強なんて何にも社会に出たら役に立たない」

 

という人もいるだろうが、私はそうは思わないのである。

 

世の中には計算しなければいけない場面が溢れているし、本が読めなければ知識を積み重ねることも出来ない。

 

英語が話せれば世界で生きることが出来るし、

 

理科的な知識があることで、災害から身を守ることだってあるだろう。

 

だから、無駄だとは決して言えないと思うのであるーーーーーーーーーー。

 

 

社会でも「効率と公正」という概念を中学校三年生で学ぶのである。

 

社会的な集団である人間はかならずその中で、

 

「対立」し、そこから「合意」を目指していくわけなのだが、

 

 

その合意に至る際の判断基準が「効率と公正」なのである。

 

ちなみに

 

効率とは、「決定に無駄がないかどうか」であり、

 

公正とは、「結果に偏りがないか、公平か」

 

どうかである。

 

ちょっと分かりづらいと思うので、最近の私に置き換えようーーーーーー。

 

 

先日私は妻から、

 

「夜19:30ー20:30の間は娘の就寝時間と重なるため、物音で娘が眠らなくなってしまう。

 

だからその時間に帰ってこないで欲しい」

 

と提案されたのである。

 

当然仕事が終わったらすぐに帰りたい私はこれを拒否。

 

ここに私達夫婦という社会集団に「対立」が生まれたわけである。

 

 

妻は私の拒否に対して激怒する。

 

「あなたがその時間に帰ってこなければ、娘が早く眠れて無駄がない」(効率)

 

「あなたは自由な時間があるけれど、私には娘が寝るまでフリーな時間がない。不公平だ」(公正)

 

 

と機関銃のように意見を述べてくる。

 

もちろん私はこれに反論した。

 

「少しでも娘の顔を見たい。それに一生懸命に働いているのにあんまりじゃないか」(公正)

 

これに対して妻はさらに反論してくる。

 

「中途半端に娘の顔を見るから、娘が夜眠らなくなる。あなたは夜起きもしないのに、美味しいところだけ取ろうとする。ズルい。」(公正)

 

「あなたが帰ってくると、私たち2人が我慢することになる。でもあなたが帰って来なければ、我慢するのはあなた一人でよくなる」(効率)

 

 

と、このような言い分なのである。

 

私としては一応さらに反論を試みたわけだが、もう絵に描いたような火に油であり、大変な目にあったのだった。

 

 

ということで、現在20:25分。私は今イオンの駐車場でこの文を書いているわけである。

 

勘のいい読者の皆様は、私がどこに合意したのかわかって頂けたことだろう。この場合私が折れてしまうのが一番効率が良いのだーーーーー。

 

 

とまぁ、こんな風に、嫌なことがあってもちゃんと学習さえしていれば、冷静に効率と公正の観点から判断することが出来るのである。

 

  

 

 

いやぁ、勉強してて良かったなぁ。(涙目)