教職者K

30代教員の日々の徒然。

バレー部の人生と囲碁将棋部だった場合の人生について。

 

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私は陽気な人や、我の強い人が苦手という特性がある。

 

だから、中学校に入学したら一番活動量の少ない囲碁将棋部に入ろうと思っていた。

 

野球やサッカー、バスケ部となると周りの陽キャぶりについていけない自信があったからである。

 

しかしながら、入学してすぐに「見学だけ行こう」と友達に誘われてバレー部の見学に行ったのである。バレーならまぁ良いか、と思った。なんか地味そうだから。

 

見学だけと思って行ってみると、ここでSという先輩に出会ったのである。

 

S先輩は太っていて、レギュラーでも何でもなかったが、モノマネが上手だった。

 

我々一年に対して様々なモノマネをやってくれたのである。

 

そして何もわかっていない我々がモノマネに食いついて来た所で、

 

「続きは入部してからね」

 

と来るのである。(やり手のビジネスマンとやっている事は同じだ。)

 

結局そんな面白そうな先輩に釣られて、私を含む7人がバレー部に入部した。

 

S先輩が試合で活躍する事はほぼ無かったが、この一件が彼のバレー部における最大の功績と言っていいだろう。

 

入部した私はここで、あろうことか顧問の先生に猛烈に憧れを抱いてしまったのである。

 

今思い出すと結構荒れている部類の人たちだったと思うのだが、その先生の言う事はみんなが聞く。

 

私は子どもながらに「教師の力」というものの大きさを感じたのであった。

 

ちなみにその先生の教科は社会だったので、私は、

 

「将来は社会科でバレー部顧問になろう!」

 

と心に決めたのである。

 

そして現在私は社会科でバレー部の顧問という仕事に就いている。

 

なので、今回のコロナのようなことが起こっていて、まともに活動が出来ていなかったら、私はバレー部に入っていなかったかもしれないし、S先輩にも出会えていない。

 

もちろん教員にもなっていなかっただろう。

 

だから、そんな些細な選択が人生を決定的に左右することもあるのだと思うと、驚きすらあるのである。

 

もしあのまま見学に誘われなかったら、多分そのまま囲碁将棋部に入っていたのではないだろうか。

 

そして、囲碁将棋部だった場合の自分の人生はどうなっていたのか。

 

それをたまに妄想する時があるのであるーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 

囲碁将棋部の私は多分ずっと教室の隅の方で、草食動物のように肉食動物である野球部やサッカー部の存在に怯える毎日を過ごしている。

 

もちろん他の子達がやりたがらない地味な係、「掃除用具の中身を確認する仕事」みたいなものをやらされ続けるのである。

 

他の子が文化祭で「バンドをやろう!」と盛り上がる中でも、私は「照明をクルクル回転させて色を変える係」みたいなやつを押し付けられるのだ。

 

囲碁将棋部でも周りと話をせずに黙々と将棋を打つ。

 

「お前って桂馬みたいなやつだよな。人を上手く避けて生きてる。」

 

そんな私に唯一話しかけて来たのは、上妻敬一だった。囲碁将棋部の活動場所となっていた理科室で私と上妻は運命の出会いを果たすことになる。

 

私と同じく部活をやりたくないという理由で入部していた上妻は「はがき職人」という趣味を持っており、毎回そのネタを部活の時間に私に見せるようになる。

 

私は上妻の考えてきたボケにツッコミを入れていくようになり、これが学校にいる時間の中で最も楽しい時間になっていく。

 

次第にそれだけでは飽き足らなくなっていった私たちは二人で漫才を作るように。

 

そして学校最大の行事である文化祭では、意を決してステージで漫才を披露することに。

 

これがのちにM1で2位となり,大ブレイクを果たす「囲碁将棋」の初漫才であるーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 

ってな人生になっていたんじゃないだろうか。

 

 

うわぁ…

 

 

囲碁将棋部も悪くなかったなぁ…。

 

 

(完)